ひとりごちるゆんず 2005年1月 |
今年も『さんでー立体写真館』をどうぞよろしくお願い申し上げまして、今年の総括と代えさせていただきます(いきなり終わりかよ)。
って、これ書いてるのが既に1月2日なんだけどさ。いやもう元旦になっても具合が悪くて、床に臥せってひたすら寝てたんで。はじめは特に腰のあたりの節々が痛んでたんだけど、年が明けたら胸のあたりの節々に飛び火してさ、挙げ句の果てにうんこしたらビシャビシャのが出ておけつの穴がヒリヒリ痛む有様。いやもう年明けから悶絶モード。
ここのとこ、少年マガジンの『クニミツの政(まつり)』で医療問題を扱ってるけど、その真似して、「ただの風邪なら薬を飲まずに、頭寒足熱でとにかく寝る」という方針でいってみたら、うまく図に当たったらしい。『クニミツ……』みたいに1晩では良くはならなかったけど、1日半でほぼ全快っぽい(下痢以外)。
風邪薬はそれはそれで製薬会社やお医者さんが「効果がある」として現に使ってるんで、今回たまたまたうまくいったからっつって軽々しく情報源に迎合して疑惑視するのもアレだけど、とりあえず今回のおいらのケースではクニミツ効果が出たっつうことでひとつ。
「図に当たる」という言い方は『椿三十郎』(1962) で学んだな。つーかそれ以外ではまだ聞いたことなかったりする。岩波国語辞典第五版だと、
だそうで。「計画または予想」ってほど信じちゃいなかったけど、うまくいったんで結果オーライ。
発見。http://www.zcr.jp/~tada/comp/freebsd4.html#keymap ←ここに FreeBSD でのカナ入力の方法が書いてある。やっぱワープロからタイピングを始めた人はカナ入力なんだな〜。
つ〜かリコーのワープロから始めて FreeBSD の彼岸に流れ着いた方が他にもいらしたということに、けっこう感慨深いものがあったりして。先達の英知と工夫に、敬意と感謝の念を払いつつ、今年の総括と代えさせていただきます(だからいきなり終わりかよ)。
でも設定かなりめんどそう。
話の流れ上なんとなく「彼岸」という言葉を使ってみた。岩波国語辞典第五版での、「岸」のバリエーションとしての意味は
おお、そんなすごい意味だったのか。FreeBSD をいじり始めて14カ月、涅槃の境地に解脱して向こう岸にたどり着いたって感じじゃ全くないんですが。でも人によっては、「はるか彼方に行ってしまった人(てか『逝ってしまった人』)」に見えるんかなぁ。
何かの問答を思い出してしまった。
「眠っている人は『目覚めた人だ』と言い、目覚めた人は『眠っている人だ』と言う。この人は誰か」
答え:「修行中の僧」。
修行と呼べるようなご大層な苦労なんかしてないけど(僧でもないし)、これを機に Unix と仏教って、なんとなく相性いいような気がしてきたのはただの気のせいだと思いたい。
そういや Unix を極めた人は "Guru" と尊称されるらしいが。研究社新英和辞典第6版では、
(; ̄o ̄)っ☆彡 ゥオィ! このまま進んで、気がついたら思いも寄らぬそっち系の彼岸に着いてしまってたりする心配はないのか?
いかがでしょうか猪木さん。
「行けば分かるさ!」
さいですか……。ま、そんな心配以前に、「結局どの彼岸にも到達できず、その世界から離脱(脱落)する」とか「何を極めるということもなく、その世界の流れに身を任せつつ、なりなりに過ごす」とかの方がはるかに可能性が大きいわけだが。
別にパソコンに命や人生を賭けてるわけでもないんで、それならそれでもいいかって感じ。
今持ってるケータイ DoCoMo D252i を、新しいのに買い替えようと決心した。
1年以上使ってはいるけど、とりあえずバッテリーはまだまだヘタレてない。じゃあなんで買い替えたいのか。
カメラ。今どき31万画素(480×640)はちょいとツラくなってきたのよね。どうせ付け合わせのカメラなんで、写真の品質もナマのままじゃ画質ボサボサのコントラストつぶれまくり。縮小かけてレタッチかけて、それでようやく PC 上で見られる代物になる。どうせ縮小しなきゃ使い物にならないんなら、はじめからデカい画像で撮った方が、そのあとサイズ変更の自由が利く、ということで。
電話番号と充電器をそのまま使いたいんで、今まで通り DoCoMo + 三菱電機の組み合わせですな。FOMA かムーバかは、まぁFOMA なんて使いこなす自信ないんでムーバでよし。っつうかムーバでさえ使いこなせてないし、ちょうどよく三菱の FOMA 事業も他社よりなんだか遅れてるみたいだし。
で、ムーバでいくつかある型のうち、年末に点灯管を買いに電器屋に行ったとき見てきた限り、店頭にあっためぼしいのは、
とりあえず D253i は、カメラ性能が今使ってるのと同じだからいきなり脱落。残るは D505iS と D506i 。
そしておいでまします最後の選考基準、これが最重要だったんだが、鶴の彫り物をしたバッテリーのフタをそのまま流用できるか否か(笑)
いや、やっぱし値切ったとは言えせっかく中国の職人さんに彫ってもらった由緒あるアートっすから。けっこう気に入ってるし。しかも物産展ブースのその職人さんのところには「開運携帯電話彫刻」と書いてあったからして、そういう意味でも、このフタにはもう少し現役で活躍していただきたい。
具体的にどういういいことがあったかと言うと、特にまだないんだけどさ。強いて挙げれば、年末休みにインド洋方面に行ってなくて良かったってあたりかな。てかあの地震と津波があった時期は毎年書き入れ時なんで、八戸から外に遊びに出てられる余裕なんかもとから全くないわけだが。
じゃあまぁあの災害が太平洋で起こらなくて八戸は害を免れたってことが、一応「開運」だったってことで(すごい無理矢理だな)。しかしあのくらいの巨大な津波が太平洋岸を襲ったら、うちなんか海抜ゼロメートル地帯だからおもいっきりやられそうなんすけど。河口から5kmは離れてるけど、今回の被災地の場所によっては、被災した人の遺体が5km内陸まで流されてきたらしいし。想像するだにほんとに恐い。被災地と被災者の皆様、そしてご遺族の方々の一日も早いお立ち直りを、心よりお祈り申し上げます。
ケータイ話に戻す。件のバッテリーのフタが合っているかどうかまでは、年末に調べられなかった(ケータイを忘れていったんで)。ネットで資料を見た感じ、どうも D505iS がフタの互換性がありそうだと目をつけておった。
D506i の資料で裏面の画像がなかったんで、売り場で一応それも調べてみようかと。性能やデザインにあまり影響のない部分の部品を共用すると製造コストが下がるから、考えられなくもない。
現着して調べた結果発表。
通信関係以外は全部試せる、バッテリーもフタも本物と同じ見本にてチェック。実際に自分のケータイと見本のフタを外して、見本に自分のフタをはめてみようとしたんだが、どっちもダメ。
つうことで、現用の D252i のどこかがおかしくなるかバッテリーがヘタレるまで、このまま使っていくことになりましたとさ。三菱電機さん、あんたも変なところで年明け早々の客を一人逃しましたですな。
大晦日からのビシャビシャうんこも昨日までで全快した記念に、全然逆だけど、12月中に撮ってきた便秘薬のノボリの写真でも。これがまた
鳥山明タッチですかこれ。しかし色が特にな〜 (^^;) 確かにものすごく分かりやすいノボリではあるけど、薬のパッケージ自体は、白とピンクを基調にシンプルで清潔感のあるデザインで女性客の買いやすさを意識してるってのに、ノボリの方はそこらをことごとく打ち消すかのよう。
この製薬会社の営業部の宣伝・販拡課では、パッケージ係とノボリ係の間が縦割りで、足並みが全然揃ってなかったりするんだろうか。
それとも両陣営の係長間で出世競争に関連する軋轢と暗闘がすさまじいとか。
大会社の営業とか販拡とかの部門内部って、顧客ウケするかわいいイメージの商品やキャラに埋もれてそうのに、実は内部はギスギスしてたりしそうだよね(←個人的憶測です)。どうせなら会社内でも営業用の着ぐるみとかテツ&トモのレプリカジャージとかで仕事しててほしかったりするのに、煌煌と照りつける青系クッキリ感蛍光灯の下、バリッとキメキメのスーツ姿の鋭角的なあんちゃんねーちゃんたちが、セビロハッピの営業部長と向き合って「殺るか殺られるかだ! ライバルどもを血祭りに上げろー!」と拳を突き上げてたりして(←個人的憶測です)。そのすぐ横で着ぐるみキャラは屈託のない笑顔でドスの利いた気勢を上げてたりしながらも、中の人の表情が見えないのをいいことに『こんなウゼェのやってられっか!』とか思ってたりして(←個人的憶測です)。
客と面する舞台の上と舞台裏との落差が激しすぎそうというか。ストレス貯めまくりで、製造部や購買部なんかよりずっと喫煙率が高いんじゃないだろうか(←個人的憶測です)。
つうかこの便秘薬の鳥山明風マスコットキャラってつまりその、今「つまり」と打ったら「詰まり」と出てきて、日本語 IM 「ことえり」が話題と関連して気を利かせてくれたんじゃないかと思うけど関係なくて、着ぐるみもこれなんでしょうかね。これを着るときの気分はいかがなものなんでしょうかね。
こんな着ぐるみで便秘薬のキャンペーンやってたとしたら、まぁそれならそれでその勇気と無謀さを称えたい。どうせ鳥山明風なら、そのキャラが木の小枝を持ってて、その先にまた同じキャラの小さなぬいぐるみが刺さってたりするとベターだ。
姉妹キャラで、極太真一文字でしっぽが軽く跳ね上がってるのもいたら、なお素晴らしい。
つうか正月からうんこネタってどうよ。
また夜なべですわ。また FreeBSD で。また日本語入力関係で。でも初めてうまくいった(落涙)。カナ入力できるっすよ(激涙)。
そしてこの1年間を通して何が悪かったのか、ようやく突き止めた。同じ悩みを抱える同志に向けてちょっと記録をしとこうかと……というか自己満足スペシャルっす。自己満足記なんで、答えを探し求めてここにたどり着いた方々にとっては邪魔な部分が明らかに多いですが、どうかこの苦労話をひけらかさして下さい(笑)
FreeBSD での日本語入力には大抵、kinput2 というキー入力フロントエンドソフトを使う。おいらの環境もそれに準拠。この kinput2 は漢字を選ぶ機能はないんで、別のかな漢字変換サーバに文字を照会して、候補の漢字を挙げてもらう。かな漢字変換サーバのフリーウェアは主なものが2つ存在する。「FreeWnn(ふりーうんぬ)」と「Canna(かんな)」。FreeWnn の方は、もともとが「Wnn(うんぬ)」という有料ソフトの無料版。便宜上この文章では以下、Wnn と言ったら FreeWnn のことにする。Canna はもとから無料らしい。Mac OS X にも密かに Canna が内蔵されてたりするらしいけど真偽・詳細とも不明。
先に言っちゃうと、Canna で出くわした問題は「かな漢字変換サーバーと通信できません」。とりあえずその答えは、
そこに至るまでが長かった(嗚咽)。
まず、今まで Wnn と Canna の分別がついていないことが問題だった。今回導入した、書籍付属の FreeBSD は日本語がすぐ使えるよう、ユーザアカウントを作るとそれに合わせたものが出来るようになってる。そのまま付属パッケージの「kinput2-freewnn+canna」をインストールしたら、けっこういきなり日本語入力できるようになってた。この時点では Wnn が稼働してたんだけど、どっちが動いてるんだか気にしてなかった。
で、ローマ字入力なのが不満で。おいらの場合、どうしてもカナ入力じゃないと意味がないわけで。ググったら
http://www.zcr.jp/~tada/comp/freebsd4.html#keymap
という先達のありがたいページ様を1月2日に発見。んでこの先達に従っていろいろと設定を変えても、どこも何も変わらないわけ。カナ入力に切り替わる兆しもない。で、ようやく気付いた。このページ様は Canna を扱っているのであって、Wnn が動いてるうちの環境じゃあんたどうにもならん、ってこってす。みそ汁で顔洗っておとといおいでなさいな、ってこってす。Canna もまたインストールされていたんで、探せば Canna の設定書類がちゃんとあったりして、混乱に拍車をかけてた。
Wnn と Canna の両方のパッケージを入れると、Wnn が優先的に使われるのかな。いや、Canna が優先で、もし Canna が不調なら自動で Wnn が選ばれるとか?。どっちでもいいけど Wnn だとカナ入力の方法が不明。つうことでパッケージ kinput2-freewnn+canna は潔く消去。改めて /usr/ports/japanese/ から kinput2-canna をインストール。ファイルサイズが大したことないんで、コンパイルも一瞬で完了。
さてここからが難関。この1年間苦しめられ続けてきた難関。
かな漢字変換サーバに Canna を使うと、kinput2 起動時にこのメッセージが出る。それでも kinput2 の方は起動してるんでひらがなは入力できる。
上述の "Long Path for FreeBSD" 様での方法をなぞって、file:/usr/local/share/canna/sample/ の「just.canna」のコピーを作って「.canna」にして、「(setq romkana-table "just.cbp") の "just.cpp" を "kana.cpp" に直し、『シンボルの定義』 の部分を削除する」としてユーザのホームフォルダ内に入れたおかげでカナ入力できるようにもなってる(この時点では「を」「ろ」が入力不可だけど)。
でも、そうして未確定カナを打ち込んで無理に変換しようとスペースキーを押すと、KDE(Unix 用 GUI のひとつ。うちではこれを使ってる)上に小さいダイアログウインドウが現れて、さっきと同じく「かな漢字変換サーバーと通信できません」。
「やっぱだめかい」と出たその小さいウインドウを閉じようと、ウインドウ右上のペケ印をクリックすると、
マウスの矢印が動くだけ。画面上で何の操作も出来なくなる。こうなると他の PC からルート権限でアクセスして KDE を終わらせるといいはずなんだけど、Mac というもう1台の FreeBSD マシンが LAN 接続されてるにも関わらず、その「他の PC からアクセスする方法」がまだ分からんので(「LAN」とは言えほとんど絶縁状態)、結局「電源を落とす」という強硬手段を取ることになる。これが恐くて Canna をいじれなかったわけで、それでまるまる1年間も日本語入力が出来なかったわけで。
つうかさっきまたこのダイアログが出た時点で、「ははぁ〜、前の環境だと Canna が動いてたわけだな」と今頃ようやく分かったぐらいにして(死)。
んで前々からやってたように、どうせ無駄だと思うけど、とエラーダイアログでググっていろいろ見た。やっぱしよく分からん。"/tmp/.iroha_unix/IROHA" を削除しろ、とか。いや、何その IROHA とかいうの。
さらに漁って完璧に思える回答を発見したと思いきや、それは Linux 専用の回答。FreeBSD には全然応用できなかったぐらいにして。
それでもいろいろ読んでたら、「cannaserver」とかいう言葉がよく出てることに気付いた。もしかしてこれが、かな漢字変換サーバの名前? こいつを起動させればいいんじゃないのか? もう少し調べてみると、どうもコマンドの名らしい。いっちょやってみるか。
一般ユーザアカウントで cannaserver [return] してみたけど許可が下りんかった。つうことでルート権限でやってみると、
/var/log# cannaserver ERROR: Another 'cannaserver' is detected. If 'cannaserver' is not running, "/tmp/.iroha_unix/IROHA" may remain accidentally. So, after making sure that 'cannaserver' is not running. Please execute following command. rm /tmp/.iroha_unix/IROHA
日本語訳: /var/log# cannaserver エラー: 別な「cannaserver」が検知されました。 もし「cannaserver」が稼働していなければ、 "/tmp/.iroha_unix/IROHA" が思いかげず残っているのかもしれません。 「cannaserver」が稼働していないと確認できたなら、 以下のコマンドを実行して下さい。 rm /tmp/.iroha_unix/IROHA
いや、あれ? これ、諸々のアドバイスページご一行様が口を酸っぱくしておっしゃっておられたことなんじゃ? 馬の耳に念仏ってやつで、読んでたときは意味不明で手をつけなかったんだけど、今思えばこいつぁどうもニオいやすぜオヤビン(誰?)
矢も楯もたまらずルート権限で実行したね。rm /tmp/.iroha_unix/IROHA 。すると……。
とうとう突破したぞ!(慟哭) なんかさっきから泣いてばっかしで、昔読んだ『泣くな太一』というゴルフマンガを思い出しちった。タイトルに反して主人公の太一君、いつでもどこでも、別に泣かなくてもいい場面でさえエグエグとよく泣いてたなぁ。作画は小池一夫。行司は式守錦太夫(←関係なし)。
とゆーことで、Canna の稼働には成功。カナ入力も一部というかほとんど成功。あとは「を」と「ろ」だけ。つうか全文字で成功しないと意味がないわけで、引き続き Long Path for FreeBSD 様のご指示に従って作業は続いた。
続く「を」「ろ」入力問題は予想してなかった展開になったんで(ていうか根本的には未解決)、今日のところはここまで。
「を」「ろ」入力問題は未解決といえば未解決だけど、「今はすべてのカナを打ち込める状態には一応なっている」という意味では暫定的に解決したと言えば解決した。
なんか歯切れ悪いけど、とりあえず「を」は Long Path for FreeBSD 様の方法で解決。方法の内容はそちらをご覧下され。一方、「ろ」は……すごいことになってたりする。
Long Path for FreeBSD 様の示される通りに mykeymap.kbd 書類で「keycode 123 = grave underscore kana_RO」としたけど変化なし。なんか見た感じ「−(全角マイナス)」みたいのが出てしまう。変換候補ウインドウで見ると「〜(波ダッシュ)」のようにも見える。Long Path... の管理人様の環境(PC9821)とは違う配列のキーボードなのかも。うちのは Compaq DESKPRO に付いてきたやつ。
で、mykeymap.kbd 書類を眺めるに、この書類で定義するキーコードの番号は8から始まって255まである。前半はかなり埋まってるのに、後ろの方はなんも定義されてないキー番号が多い。翻ってキーボード表面をつらつら見るに、Windows 用のは Mac 用のより確かにキーが多いけど、どう見ても 255-8=247 個もない。んでこの空いてるキー番号のどれかにそれっぽい文言を入れてやると、きちんと「ろ」を打てるのではないかと。
そう思いつつさらに mykeymap.kbd をよ〜く見ていったら、キーコード 211 で「keycode 211 = backslash underscore kana_RO」とちゃんと出てる。どうもこのキーボードの場合「ろ」は211番のような気がしてきた。でも、それなのになんで「ろ」が出ないのか。
もっと情報を漁ったら、「X.org に乗り換えよう」での X.org 特有の似たようなトラブルの対処法で、この「keycode 211 = backslash underscore を設定する」が出てた。やったのに、それなのになんで「ろ」が出ないのか。
現時点ではこの問題は未解明なんだけど、キーが1つでも効かないんじゃ日本語タイプマシンとして意味ないんじゃないのかって感じだが、さにあらず。
「ろ」のすぐ下。Windows キーでもその右隣のキー(「マウスポインタキー」?)でも、打てば「ろ」が出るようになっちゃった。ちなみに左側の Windows キーでも出ちゃうぞ。出ないどころか過剰大サービス出玉大開放大爆発。
なんかもうめちゃめちゃだよな〜 (^o^;) ここらへん無料の自前いじり OS の醍醐味ってやつですか。いや、負け惜しみとかじゃなく(ちゃんと有料 OS マシンも持ってるんで)、どうせメーカーサポートなんてないんで、自己責任でこういうエキセントリックさを体験できるのってけっこう楽しかったりする。
当てずっぽの結果オーライそのものだったけど、試しに mykeymap.kbd で何も指定されていない 115番〜123番まで全部に「grave underscore kana_RO」を入れたらこうなった。ちょうど「ろ」のすぐ近くだしさ。番号が空きだったってことは、そこらのキーは Windows じゃ使うかもしらんけど FreeBSD じゃ余ってるってことだから、実用上は支障ないはず。
まだ他に空きのキーがあるから、いろいろ試しながら、真実の「ろ」をゆっくり探すとしますか。ていうかこのままでも人に見せたらけっこうウケるかもと思うと、わざわざ標準設定にこだわることもないんじゃないか、とも。
カナ入力ユーザの時点で既に異端だしな。けどカナ打ち特有の、脳みそからモニタまでの直結感覚。この気持ちよさは癖になるっすよ。あと外来語の綴りをわざわざ日本語ローマ字に綴り直すのが、ものすごく非生産的で無意味な作業に感じるのよね。
「konpyu-ta」。「adobaisu」。「ibento」。打ちながら自分に対して「バカじゃねぇの?」とそう思ってしまう。英語圏の人名・地名なんか最悪。「jo-ji bussyu」。「rosanjerusu」。「huransu」。「doitu」。何だべー感じ。
でもローマ字入力の利点も、この前少しやって感じたよ。キーボードの一番上の段をほとんど使わないってのは、それだけでけっこうラク。カナ打ちだと、手の小さい人なら指を伸ばしただけじゃ最上段まで届かなかったりするから、手がいつも浮き気味で肩が凝りやすいし(←自分)。ローマ字打ちは負担がそのぶん少ない感じ。それにローマ字だと右手小指の負担も少ないなぁ。カナ打ちだと単語によっては最悪だもんな。「ホームページ」とか「ボボボーボ・ボーボボ」とか「ベム・ベラ・ベロ」とか。必ずどこかでつまずく。まぁ2番目と3番目は頻出ってわけじゃないけど。「けむり」は意外とラク。「われわれ」はけっこうツラい。
カナ打ちだとローマ字打ちより手の態勢に無理が出るけど、打鍵数の少なさでフォローしてるわけだし。こうして見るとどっちもそれなりの利点・欠点があるんだが、カナ打ちが圧倒的に劣勢という現状に対しては不満を表明するものであーる。
「ろ」の大出血大サービスというフィナーレで、FreeBSD + Canna + カナ入力 の顛末は一応の区切りがついた。慣れてるのが一番という意味で、カナ入力やっぱ居心地いい。やっと自分のマシンになったな〜って感じ。「ろ」の位置が微妙に違うのももう気にならん。
Macintosh LC575 を使ってたその昔には、ASCII 配列に無理矢理カナを配置したキーボードで打ってたもんな。あれに比べりゃ大したことないない。そういや当時は手首のスナップ効かせまくりのタイプライター風タイピングだったんで、それに耐えられずにキーボードが死んでしまい、キーボードだけ買い直したら新 JIS 配列になってたっけ。それを機に弱く打つにようにしたら、打ち込み速度が落ちた気がする。
で、Wnn と Canna をそれぞれちょっとずつ使ってみた印象なんぞ。あくまでデフォルト設定でちょっとずつ触ってみただけの感想なんで、その後のカスタマイズでどうにかなる事象もあるかと。
Wnn の勝ち!……のような気がする。文節の区切り方が Canna よりはうまい感じで。「Canna は初期状態だととってもおバカ」というのが定説らしいけど、Windows 用 ATOK から辞書の移植ができるっぽい(こちらのページ様の最後の方にその手順あり)。どっちも鍛えていけば、だんだん勘どころを掴めるようになっていくらしい。
Canna の圧勝。Wnn だと変換候補はインラインで出るのみなんで、文章上の、候補が表示されてるところに、スペースキー1回で1候補だけ表示される。これは使いにくい。Canna では ATOK や ことえり みたいに、別な小ウインドウに候補文字一覧が出て、そこから選べる。Wnn でもそう設定できるかもしれないけど、少なくともデフォルトじゃない。
Wnn の勝ち。入れて再起動かけただけで動いてたもん。今回使った「FreeBSD Expert 2005」という本に付属の FreeBSD 5.3 が、日本語の取り扱いに配慮されたセッティングになってるため、それで設定済みだった可能性あり。Canna は、インストールしただけだとおととい書いたようなトラブルが発生しがち。トラブル発生時の対策法を知ってさえいれば対処は簡単なんで、もし今後これが発生しても大して気にならないと思われ。頻発したら考えものだけど。
FreeBSD 用の日本語入力環境は、今の「kinput2 + Wnn」「kinput2 + Canna」の他に新システムの開発計画が3つくらい同時に進んでるらしい。kinput2 も Wnn も Canna も、フリーウェアのやつは性能向上の改良が山場を越えて安定してはいるけど、何年も前に安定期に入ってしまったんで、商品としてバージョンアップをガンガンやってる ATOK なんかに比べると陳腐化してきてるらしくて。
でも新しいプロジェクトはいずれも個人レベルに限りなく近い状態で(お互いに知り合いらしい(笑))、開発スピードに限界があるんだそうで。特に辞書の作成が遅れているらしい。そりゃそうだよな〜。膨大な数の単語や成句の属性振り分けだけ考えても、かなり気が遠くなるよ。んで、そこらの単純作業をしてくれるボランティアを募集してたっけかな。プロジェクト名を忘れてしまったんで志願しようもないんだけど。
ま〜とりあえず陳腐化してようが何してようが、カナ日本語入力。これがうちの環境で出来るようになって嬉しい。Google 検索の自由度が大幅に上がったしな。あ、日本語を書けるということはメールを書けるということだ。Mozilla Thunderbird 1.0 の FreeBSD 版が出てたら使ってみよっかな。
なんとなく盛岡に行って参った。いや分かってると思うけど「参った」って「降参した」って意味じゃないんだよ。分かってるとは思うけど、「来た」の謙譲語だよ。へりくだり。そういやさ、剣豪ものの時代劇とかで戦う男ってのは、名乗りを上げてから参戦するよね。でさ、強敵にサシの勝負を挑むとき、例えば「ゆんず、参る」みたいに言うじゃないの。あれって戦う前から降参宣言みたいで変な気がするんだけどどうよ。
んなこたどうでもいいとして、相変わらずガソリンも高いし雪と氷で路面状態も悪いしで、鉄路にて盛岡に参った。いやだから降参じゃなくて。
鉄路。
素晴らしい響きではございませんか鉄路。響きと言えばレールの響きが最高なんですコテテンコテテン。何ですと? 新幹線はやてならあくまでゴガシュワゴガシュワであって、決してコテテンコテテンじゃないと言わしゃりますか。
あなた半分当たってるけど半分はずれ。なぜなら今日選択した鉄路は JR 東日本じゃなく、
だからだ! どうでもいいけど、サイトちょっとダサ目だね。いろいろと (^_^;) 会社の発足は21世紀に入ってからだったはずなのにレイアウトやデザインが20世紀的というか。それにメールアドレスのリンク、全角と半角が混在してるし。Windows 以外の環境で見るとかなり間抜けなんだよねこれ。
マイクロソフトさんも XP とか SP2 とか頑張ってるみたいだけど、全角と半角の区別くらい見てすぐ分かるようにできんもんですかね。全角と半角の区別がつかない方がいいことなんか何もないと思うんですが。とりあえずサイトの HTML 手書き派にとっては、タチの悪いエラーの原因になりそう。
せっかく「銀河鉄道」なんだから、宮沢賢治的イメージを盛り込む方向で、現状ではちょっと救いようのないサイトデザインを何とかしていただきたく存じ上げ候。
んなこたどうでもいいとして、今日はなんかこう、在来線に乗るぞと決めた時点でにわかに鉄道魂がわき上がってきたんで、写真撮ってきましたでげすよ。いや、やっぱし鉄道マニアが鉄道に寄せる愛情の表現っつうと鉄道写真ですからはい。とは言っても本物のマニアさんならではの腕や勘どころがあるわけでもなし、カメラもケータイのやつだから大したのがないんだけど、まぁとりあえず、
左から、八戸線 鮫行き普通列車(キハ48 558)。東北本線 青森行き普通列車(クモハ701-1007)。いわて銀河鉄道普通列車盛岡行き(IGR7001-2)。東北本線 弘前行き特急つがる(485系? いやもっと古いか?)だ。ちなみに車両番号は、一番近くにあった車両のを写真に撮って記録してきた。デジカメってフィルム代・現像代を気兼ねせずにバシバシ撮れるのがいいよな〜。
まぁ「揃い踏み」と言いつつ顔がうつってるのは2つだけだけど。いや、もっと離れれば全部撮れたんだけど、発車時刻が近くて余裕がなくて。それにこのカメラじゃ小さくなりすぎてろくに顔が写らんのではないかとも思って。いいカメラ付いたケータイ欲しいやね。
特急つがるは車両番号がよく分からなくてちょいと悔しい思いをしたんで、その代わりと言っちゃなんですが、
を撮ってきたっす。マニア垂涎の「雪化粧もの」っすよ。頭のひとつ目ライトと運転席の平板ガラスが「わしゃ昭和の生まれじゃ〜ジロジロ見てんじゃねぇぞ〜」って感じ。んでま〜こんな安浦刑事的旅情にほだされつつ、車中の人となったおいらであった。
鉄道のロマンな話はここまで。ここからちょっと現実の話でも。
2002年12月、東北新幹線の盛岡−八戸間が開通したのに伴って、その区間の在来線が JR 東日本から切り離されて、新設された地域鉄道会社に移管された。岩手県側は「IRG いわて銀河鉄道」。青森県側は「青い森鉄道」。青い森鉄道は区間が短いんで今はあんまし存在感ないけど、現在工事中の東北新幹線八戸−新青森の開通とともに、その区間の在来線を引き受けることになってる。そうなると、青森県内では「県内一、二の都市を結ぶ鉄道」としてけっこうな存在感になるはず。
まぁどっちの鉄道会社も、ほとんど儲かる目がないことがはじめから分かってる中で、それでも積極的に電車を走らせて利便性を提供してくれてる。現状の八戸−盛岡の間を1時間に1本のペースで走らせるってのは大したもんだ。その他に近距離も走ってるし。
で、頑張ってくれてはいるんだけど、発足前後に地元で問題になったのは、JR の頃に比べて、運賃がやたら高くなったってこと。沿線住民の人たちも事情を飲み込んでくれたみたいで、もう不満を聞くことはほとんどないんだけど、たまーに八戸から盛岡まで、端から端まで遊びで乗ってみると思うわけ。
と。今日の帰りははやてに乗って帰ったんで、その切符も撮影したよ(はやては全席指定だけど、盛岡以北は「立席」で切符を買うと自由席料金で乗れる。グリーン車以外で空いてる席ならどこに座ってもいい)。3410円。差額はたったの450円。ちなみに所要時間は、はやてが約40分。青鉄 + 銀鉄が約120分。はやて、3倍速だよ。
青鉄 + 銀鉄で八戸−盛岡間を通して乗るの、3回目なんだけどさ、こうして見ると、近距離客は多いんだけど遠距離客がいない。特に、端から端まで通して乗ってる酔狂な客なんざ他に誰も見たことがない。概数で言ってるんじゃなく、おいらが乗った3回で、ほんとに他に1人もいない。
いくら値段表を掲げて八戸−盛岡間を通して走らせても、今は通して乗る人がいないから、カネが落ちてくるわけじゃない。県境を折り返し点にして、別個の近距離線として営業してるのとおんなじ。端から端まで走らせてる意味がない。
でもこれ、料金設定でどうにかなりそうな気がするんだけど。例えば
この設定だけで、かなり価値が生まれると思うんですが。価値を感じて新幹線やクルマから乗り換える客が出てくると思うんですが。
せっかく八戸・盛岡の2都市を連絡して走ってるんだから、端から端まで乗る客が欲しい。
今の料金計算は、
という一次関数的なものだけど、これを「乗る距離が長ければ長くなるほど追加料金単価が減っていく」という形にすれば、数の多い近距離客からは今までとほとんど同じ収入があり、さらに、遠距離客の利用増が見込める。安くしたとは言え、運行形態を全くいじらなくても、実質今まで売り上げゼロだったサービス商品に、客がお金を落とすようになる。その収入はそのまま会社の懐に入るってことだ。
料金計算の方法は、「距離が増えるごとに一意に増えていき、距離が増えれば増えるほど伸び幅が落ちていく」ということは2次関数(横倒しの放物線)でサクッとできそうな気がするんすけど。高卒文系程度の数学力で計算できそうなんすけど。
y = a√(x -b) + c ですな。基本料金と終点での料金、それとどこか途中の1駅までの料金。以上の3つを決めれば a, b, c が求まる。その a, b, c をもとの式に代入して式が完成したら、他の各駅までの料金はこの式から算出できる。a, b, c の3つの数値をいろいろいじりながら、条件に合う曲線を作れば良し。
おさがり3セク鉄道には「新幹線に対する気遣い」があって派手に営業かけられない面もあるらしいけど、新幹線の主要ターゲットはもっと遠距離の客だから、客の奪い合いには直接はならないと思うよ。八戸からはやてに乗る客で言えば、JR にとっておいしいお客は仙台、大宮、東京まで行く遠距離客。盛岡までの客は近距離客。客単価が低くてあまりおいしくない客。少しくらい流出しても痛くないはず。
それに、盛岡まで行くのに通勤型電車に2時間乗るのに耐えられない客は必ずいて、彼らはより速くて快適なはやてを選ぶから、「はやてに乗るはずだった八戸−盛岡の客をみんなゴッソリ持っていかれた」と JR 側が文句を言うような事態にはならないと思う。
とまぁこんな考え方でどうですか、青い森鉄道さん並びにいわて銀河鉄道さん。赤字だ赤字だと眉間にシワ寄せっぱなしじゃ来る客も来なくなりますよ。ここらでひとつ、この「はやてより1,000円安い」企画でどーんと客寄せしてみませんか。損はないはずですよ。
いわて銀河鉄道に乗ってると、2時間もの長大な時間が暇になる。カバンに入れて持ち込んだ本を読んで過ごすわけだが、それでも飽きる。んで、周りを見回すと、車両の後ろの風景がですな、なんだか大変なことになってるわけですよ。いやもう雪を巻き上げてすごいのすごくないのって。
通勤型車両とは言え、最高で時速100km行くからね。んでまぁなんつーか、空力性能とか全く考えてない、カステラみたいに両端がザックリ切り立った直方体な車体なんで、最後尾で派手に乱流が発生するわけよ。その乱流をまた粉雪が見事に可視化してるわけで。
一番後ろの窓ガラスのところまで立ち入り OK っぽかったんで遠慮なく立ち入って撮ったけど、動いてないと今ひとつその凄まじさが伝わってきませんな。っつうかカメラをガラスにもっと押し付けて撮るんだったよ。
列車の背後の凄まじさとは裏腹に、前の景色は、のどかというか平和というか。2両編成だから、後ろから前なんてすぐ行けちゃう。この写真のすぐ左側が運転席ね。運転士さん、チェック事項をきちんと指差呼称しながら運転してた。
やっぱしクルマで行かなくて良かったわ。何たって楽だよこの路面状況を考えると。今日は移動に関する面倒ごとは全部プロにオマカセだ〜。電車の旅はこれがいいのだ。
盛岡駅に着くと、なんかさ、いわて銀鉄のホームって、すごく隅っこの、妙に薄暗いところなんだよね。隅っこなのは今さらどうしようもないだろうけど、暗いのだけはどうにかしてほしい。ホームの上を通路か何かが完全に覆ってる。照明を取り付けても周囲の暗さは変わらないし電気代ばっかりかかると思うんで、どうせなら「天井」を白く塗ったりとかしてほしかったりする。でも銀鉄と同じホームを共有する隣の線路が、ディゼール車両の JR 花輪線だからなぁ。ススですぐ黒くなっちゃうとか?
ていうか実はもともと白かったのにススで黒くなってしまったなれの果てだとか!? だとしたらマメに掃除するなりして、より一層のイメージアップを頑張っていただきたいっす。
八戸−盛岡間は、新幹線だと7割以上がトンネルで、窓の外はけっこう暗い。でも在来線だと逆に、(たぶん)7割以上が空の下を走る。東北地方の冬の天気というと「どんよりした鉛色の空」という日本海側のイメージが強いけど、太平洋側の冬は晴れた日が多くて、特にこの日みたいに薄く雪化粧した景色は大変明るい。するってぇと最後に滑り込んだ盛岡駅の暗さが、いやが上にも目についてしまうんですな。
その点、八戸駅は設計が新しいんで暗さ対策を考えてあって、橋上駅の真下の部分が暗くなりすぎないよう、壁と天井を銀色系の素材にしてる。ちょっと参考になるかと。
〓ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ⊂<回 ←仕切りジッパー
盛岡に来た目的は、先日、「駅前に新しい映画館ができたらしい」という情報を得たためだった。そいつをちょっと見てみようかと。
でも何の情報もなく行ってしまったんで(映画館の名前さえ知らなかった)どこにあるのか全く分からず、アッサリ断念。今さらググってみたら、これか? この「岩手県盛岡市盛岡駅前通 2005年 春 8スクリーン1415席」っての。「春」ってまだじゃん。しかし駅前通りにこの規模のシネコンができちゃうと、旧来の映画館通りはどうなっちまうんでしょうか。どうせなら映画館通りに作ればいいのに。盛岡フォーラム向かいにあった東映だか松竹だかが撤退して、空きがあるんですが映画館通り。
で、駅前を一通り見回してもみてもそれらしいものを発見できず(春オープンならもう工事中のはずなんだけどな……)。もしかして駅前通りの春オープンのやつとは別に、既に駅西口方面あたりに別なやつが建ってたのかも知んないけど、まぁそこまで探すのめんどくなっちまって。それより既成の映画館通りで映画漁りしようと。でももういっぺん駅前を見回して目についたもの、それは
夜、電飾が光ってるときは電球の点々が見えて綺麗なんだろうけど、昼間に見ると、点じゃなく緑色の電線ばっかし目立つ。これがまたゾンビの血管みたいで容赦なく不気味(笑)
で、おいら的には盛岡に行ったら映画と書店。ゾンビ風クマさん撮影後は、中心商店街に向かって歩いて行きましたとさ。しかしめちゃめちゃ寒かったよ。北上川にかかる勝鬨橋(かちどきばし。鉄骨トラス組みという最近あまり見かけないスタイルで、檻か籠みたいな形が愛嬌があるんで、盛岡の町のシンボル的存在になってる)を渡るときなんか、風のあまりの冷たさに、一歩ごとに「風コノヤロウ 川コノヤロウ 橋コノヤロウ 鉄骨コノヤロウ リベットコノヤロウ ボルトコノヤロウ ナットコノヤロウ 錆止めコノヤロウ……」と猪木風につぶやいてしまったぐらいにして。だって八戸より寒いんだもん。
映画館通りをずーっと見てちょうどいい時間のやつを探した。盛岡フォーラムにて『カンフー・ハッスル』。すぐ続けて『エイリアン vs プレデター』。よしこれに決めた。その前に、盛岡東宝の前に着いたらちょうど『ハウルの動く城』上映直前。でも混んでたらいい席が取れないだろうから、パスしたとこだった。『カンフー・ハッスル』はあと1時間以上あるから大丈夫、と、とりあえず中心商店街の本屋で存分に立ち読みして気に入ったのを買ってから盛岡フォーラムへと出向いた。
つうか買った本、『いまさら流体力学?』っつう通俗向け科学本なんだけど、「大槻義彦責任編集」とある。なんか宣伝効果のために名前貸しただけって気がする。てか問題は大槻先生の名前が出ても、それで特に信頼性を置けるような気がしないってことなんだが。
それはどうでもいい。本がおもしろければそれでいいのだよな。前に買ったおフランス製の流体工学通俗本は死ぬほど退屈で、途中で捨ててしまったからな。フランス人のセンスがおいらと合わなかったのか、それとも単に日本語訳した人がヘタクソだったのか(学術系の本って、プロの翻訳家じゃなくその専門の学者さんが翻訳するケースが多いよね)、たぶん永遠に不明。「いまさら……」の方は、今のとこ4割くらい読んで、けっこう楽しく読めてはいる。
そして『カンフー・ハッスル』。
あのさ、ここでも文句言っちゃうけど、いや、映画の内容には文句なくて、すんごい楽しんだんだけど、文句は日本の配給会社にってことで。
宣伝を信じてしまってさ、『少林サッカー』みたいな「ギャグ8割マジ2割」の映画だと思い込んでたら逆なんだもん。かなりマジな路線だったぞ。もちろん爆笑ギャグも超絶秘技もたくさん盛り込まれてるけど、ストーリーと演出はシリアス基調じゃん。観ればすぐ分かるけど、『少林……』とは本質的に違う方向性の映画だったんだが、配給会社はそういう作品的に重要なところを全く無視する方向で売り出しやがった。
ビラ・ポスター・パンフの人物紹介がB級的なのはまだ我慢したけど、「舐められたアイス売り」「コシの弱い麺打職人」「担がれやすい人足」なんて全然内容と関係ないじゃん。たぶん『少林サッカー』の「魔の手」「鉄の頭」「鎧の肌」「水渡り」「旋風脚」がウケたからなんだろうけどさ。
下手にふざけた売り方に構うのはこのくらいにして、映画は素晴らしかったよ。
主人公のはずのシン(『少林サッカー』と同じ役名?)はクライマックスまで存在感薄いけど、その代わり、充分に時間を割いて語られる、脇役の人たちの意外な設定やエピソードが面白くてなぁ。今までの香港アクション映画が、その場その場の魅せ方重視だったのに対して。ストーリーや設定をネタバラシするとまずいという緻密さ、繊細さを兼ね備えたこういう作品、今まであんまりなかった気がする。よく練られ、よく撮られ、よく編集されてる。
『少林サッカー』でも脚本に2年かけたらしかったけど、ギャグと盛り上げに重きを置くために筋は敢えて単純にしたって感じで、今回みたいな意外性はなかったしな。どっちもそれぞれにいい完成度。「焼き直しはしない」というところに骨を感じたよ。
言い忘れるとこだった。「復讐はいけないことだ」と堂々と言い切った格闘アクション映画ってほとんどなかったと思う。『少林……』でのテーマ「努力と希望が夢を叶える」にしても、チャウ・シンチーという人間の志の高さが、作品を一段と高いところに持っていってる感じ。
盛岡フォーラムじゃ字幕版が上映されてた。今度は八戸フォーラムで上映中の日本語吹き替え版も観てみよっかな。
余談1:それにしてもチャウ・シンチー、いい体してるよね。ハリウッドスターみたいな見せるためだけの余計な筋肉はなく、カンフーの修練者らしく、ビシッと締まってる。ルックスもいいし、映画の作り手としての実力も認められて名声も手にしたし、この人に足りないものなんてもうないのでは?
余談2:CG 特撮、『少林サッカー』では至る所で CG 臭さが出てしまってたけど、『カンフー・ハッスル』じゃそこらへん完璧に叩き直してきたな。
追伸:今日は『TAXI NY』と『オーバー・ドライヴ』を観てきたよ(八戸で)。『TAXI NY』は何から何まで全て映画のプロの仕事で大満足。特に主演の2人の演技と容赦ないカーチェイス演出が絶品! んでその後に観た「オーバー……」は、津軽三味線の演奏は素晴らしかった。ストーリーは良くも悪くもなかった。けどビジュアル面では演技も演出も美術も照明も編集も、やっつけ仕事・素人仕事・手抜き仕事がやたら目につくひどい出来でさこれが。『TAXI NY』との落差がことのほか悲しかった。
編集なんて、映画製作の段取りで一番カネのかからないところで、そのうえ練り込みようで作品のグレードをなんぼでも上げられる作業なんだから、少なくともそこだけは世界と互するレベルであってほしい。日本映画界の編集に関する最大の勘違いは、編集に気合い入れるのはサスペンスものだけでいいと思い込んでるところだな。どんなジャンルであれ、編集軽視の作品に良作なし。しかもコメディこそ編集の腕前次第でクズにも宝にもなるっつうのに、この程度の低さは一体どういうつもりなのか。映画作りというか、表現・芸術・創作という行為すべてをナメてると受け止めておるが。
あと、話の着想が「シモキタの勘違い」から来たんだろうとは察しがついたけど、残念ながら青森県の下北は下北地方であって、津軽地方じゃないっす。
(ネタバレ注意)
タイトルを見る限り、最近のハリウッドのネタ切れ症候群もついにここまで来たかって感じの企画だよね。まぁアメコミなんかじゃ複数のシリーズのコラボレーションはよくあることらしくて、『エイリアン』も『プレデター』もどっちも20世紀 FOX の映画らしいから版権なんかに特に問題もなく、そういうノリで作ったんでしょう。ていうか面白かったから細かいことはどうでもいいや。
『プレデター』はシュワちゃんが出てるやつしか観たことないけど(しかもテレビでちょっとだけ)、『エイリアン』は1〜4をみんな観てる。エイリアンの独自世界を気に入ってる人にはあまりウケが良くない『2』が、おいらは一番楽しめたなぁ。アクション一番派手だし、画質もキャメロンブルー炸裂でカッチョよかったし、サスペンスな盛り上がりもすごかったし。
『3』は基本的には『1』への回帰だったね。エイリアン生誕の場面が印象深かったけど、あれで生誕したのはエイリアンだけでなく、監督デビッド・フィンチャーもあの場面で映画界に生誕したと思われる。
画質では、リドリー・スコットの黒、ジェイムズ・キャメロンの青に対し、フィンチャーは黄色をぶつけてきたっけな。全体的にコーフンするって程でもなかったけど、作品自体の個性は堪能できた。
『4』はストーリーだの場面だの、ほとんどみんな忘れた。唯一覚えてるのは
ってことくらいで。あと、映像の基調色が毎回違うのがこのシリーズの特長だけど、『4』は青緑だったような気がするけどやっぱしあんまし覚えてない。
んでまあ一番最近観た『エイリアン4』が、観たのが公開年の1997年でしかも印象薄かったんで、旧作群にあまりとらわれることなく『AVP』を楽しめた。いやほんと、期待してなかったんだけどかなりノれてさ。10分おきに通路の形が変わるというのが面白かった。でもきっと『CUBE』(1998) からのイタダキネタなんだろなこれ。
2001年にハル・ベリーがアフリカ系として初めてアカデミー主演女優賞を獲得して以来、ようやくアフリカ系女優が多くスクリーンで活躍するようになったね。「多く」とは言っても、割合としてはもう少し出てもいい感じだけど。それまで不自然なくらいヨーロッパ系ばっかだったもんなハリウッド映画に出る女性。
この映画、主人公がアフリカ系女性。ほんと少し前まで考えられなかった感じ。でも全然「見慣れない」「不自然」って感じがないのな。「主演女優はヨーロッパ系に限る」なんて考え方は、完全に過去の遺物になりましたですな。
で、この主人公、すごいがんばる。めちゃめちゃがんばる。はじめは自分と仲間を救うため。それが隠し設定が現れていくごとに、だんだんと人類を救うためになっていく。その動機が伝わったわけじゃないだろうが、とにかくその働きと勇気が、彼女と行動を共にするようになったプレデターに認められていく、と。
メッセージは特にない純粋な娯楽作品だけど、見せるツボどころを押さえてて、話がダレるところもなく、最後までぐいぐい引っ張っていく。今調べたら、やっぱしというか上映時間たった100分だよ。それであんだけの密度だもん、日本映画界になぜか根付いてしまったと思われる、「上映時間は2時間を超さなくてはならない」っつう信仰が、全く無意味だということがここからも分かる。『オーバードライヴ』はあの内容で127分。長いって。いや、2時間超なら2時間超なりの密度や面白さがあれば文句はなかったんだが。
『AVP』のクライマックス大乱闘の終盤にはお約束の、エイリアンのしつっこさ。やっぱこれがないとな〜(笑)
今回は『2』と同じく、最後はクイーン・エイリアンとの戦いになるんだけど、キレのいいアクションに興奮しながらも、なんだかもの悲しさを覚えたよ。観てるときは観るのに忙しくてそれが何なのか考えてる余裕がなかったけど、今思うと、こういうことかも。
エイリアンは大した知性があるわけじゃなく、「狩りを楽しむ」なんて文化を持ってるわけでもない。野生動物として純粋に自分たちが生きるためだけに行動してる。でもその生態と凶暴性という当人にとってどうしようもないことのために、人類からは存在価値を否定され、蛇蝎の如く嫌われ、挙げ句の果てに自分の生んだ子供たちを皆殺しにされる。プレデターには狩りの標的として利用されまくりだし。ただ嫌われたり殺されたりするためだけに存在するなんて、家畜の方がまだマシだよこれじゃ。そうして追い込まれたクイーンエイリアンが鬼子母神の如く怒り狂うのになんだか同情してしまって。
このエイリアンという架空の生物は、人類が共存していくことが不可能であるようにあらかじめ設定されものだから、人類側の対応として容赦する必要もないんだけど、なんかこれがまた、人間の業を鏡映しにしてるような気がして。人は大昔から狩りをして来たわけで、はじめはエイリアンの営みと同じく生存のためだけの行為だったのが、農耕技術の発明・発展で生活様式が高度化されてきたため、必要性がだんだん薄れて趣味化・文化化されてきた。けっこうプレデターと似てるわけ。実際、趣味で狩りをする人たちにとっては、獲物を仕留めたときの快感がたまんないらしい。
人類の狩り文化は、最近になって生態系への配慮や動物愛護運動の台頭で下火になってきたわけ。んで下火になったせいで鬱積した、プレデター的な人たちの感情が、あるいは人類が普通に持ってるプレデター的部分が『エイリアン』を作り出し、シリーズ化されるほど支持されてるんじゃないかと。地球の生態系に悪影響しか及ぼさない生き物ならブッ殺しても構わんだろう。とにかく何かとんでもなく強い敵と戦ってブッ殺したい。なぁこいつならいいだろう、と。
尻切れだけど、この話はこのくらいにさせていただきまする。
なんだか書いてて、『エイリアン』シリーズを全部観てきた自分が、特に、大量のエイリアンをブッ殺しまくる『2』を好きな自分がそれにモロハマリなんじゃないか、と恐くなってきたんで。
そんじゃ細かいツッコミどころでも。
最後のプレデターの宇宙船の着陸場面の演出、もろに『未知との遭遇』そのまんまだよね。
そのあとの一番最後のカット、その直前に期待した通りの素晴らしいB級オチで笑ってしまった。脚本家さん、戦いが終わったところで息切れしてしまったみたいだね。それまでハイレベルな娯楽で充分楽しんだんで、ご愛嬌で笑って許せたけど。
このオチ、『ジュラシック・パーク』でも期待してたんだけどね。
最後にみんなでヘリコプターに乗ってホッと安心したところで、カメラはスススーッとキャビンの隅っこの方に寄っていく。そこにはエリマキトカゲみたいな恐竜が潜んでいた。そいつはカメラ目線で一鳴きして、観客に向かって緑色の毒液を吐き出して The End と。これでパーペキだったのに、スピルバーグ君も気が利かないよな(笑)
最近、隣のあの王国に対しての経済制裁論がアツいよね。方法はいろいろあるんだろうけど、農水産物の輸入くらいだったら続けやってもいいと思うんだが。カニだのウニだの松茸だのを、今まで通りバンバカバンバカ買ってやってもいいじゃないか。
そして気前よくポーンと支払うんだよ。流行の
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ネタに合わせて「すかし」やってみました (^^;)
「風コノヤロウ 信号コノヤロウ 車コノヤロウ ライトコノヤロウ クラクションコノヤロウ 歩道コノヤロウ 歩行者コノヤロウ……」。凍てつく勝鬨橋をまた渡って盛岡駅に着いた。映画も堪能したことだし、もううち帰る。夜も遅くなったから はやて でさっさと帰るのだ。
その前に、駅前じゃ昼間やたらキモかった電飾のクマさんさすがに点灯してた。こいつを撮影しとくか。
まぁ昼の姿よりずっといいけど。
年末あたりからボヤーンと疑問に思ってたことを思い出した。「哺乳類の体の色はなぜ地味なのばっかりなんだろ」と。種にもよるけど、魚類や鳥類の色の鮮やかさは言うまでもない。爬虫類・両生類でも彩度の高い緑や赤があったりする。しかるになぜ、生物として最も進化した形態とされる哺乳類はみんな揃ってそんなに地味なのか。特に、陸上の保護色として有効なはずの緑色がない。海に戻った哺乳類も青っぽくなるべきなのに、「ダークグレイが限度でした」って感じだし。
哺乳類は進化の途中、共通の祖先が何らかの理由で様々な色を作る機能を失ってしまって、哺乳類は生物史上では比較的新顔なことから、いまだその機能を取り戻せていない、あるいは、いったん色を失ってみたら別になきゃなくてもいいかもしんない。それを現在試験中。という状態のまま今に至る、と考えるのが妥当かと。
年末年始に友達と飲みながらその疑問を聞いてもらったら、「マンドリルの顔、派手だろ」との意見が出た。おおそうか。確かにあの青はキてる。色を作る機能は、一度失ったら絶対再現不可能、というわけじゃないのか。
しかし、まぁ人間の色で鮮やかなのと言えば赤で、唇や口腔内なんかがそうだわな。あれは血の色だと思うわけ。血の気を失うと唇が紫色になるのでも分かる。で、青あざもそうだけど静脈血なんかは肌越しだと青っぽく見える。もしかしたらマンドリルの青も静脈の色で、肌や毛の色ってわけじゃないのかも。
と思ってたら、同じ疑問をお持ちの方発見(2004年6月11日ぶんのログ)。ついでにマンドリルの顔の色の由来の解説ページ様も発見(ホームはこちら)。ふむふむ、静脈血管の色らしいのか。やっぱし肌や毛の色素じゃないんだ。
とかまぁそんなこと考えたりしつつ、このクマ以外にも電飾で光ってたやつをあと2点(他にもまだあったけど)、立体で撮ってきたです。
ケーキ型の電飾は、ゾンビグマのすぐ横にあったっす。ていうかこのケーキがメインで、ゾンビグマはその周りに何匹か配置、という構成だったけど。スキー持ったクマはそこから少し離れたところ。こっちは色案配まともな感じする (^o^;)
↑短い棒には「端っこ」を付けるようにしてみました。
駅のみどりの窓口には新幹線の券の自販機があるんで、それの指示に従って買ってみた。ええと八戸まで、と。そしたら「指定席のみ」ですなんて言われた。いや、はやては全席指定席だけど、盛岡−八戸間はグリーン席以外は全部自由席扱いだろ。
いぶかりながらもページを進んでいくと、最後に金額が出た。
オイ! なんかやたら高いな。いわて銀河鉄道 + 青い森鉄道の料金(2,960円)より500円程度しか高くないんじゃなかったんけ?
取り消しボタンってのがあるな。当然「取り消し」ポチッとな。戻ってきた初期画面をよーく見たら、「立席」というボタンがあった。結局それだったんだけど(3,410円)、なんかどうも分かりにくいというか、盛岡−八戸の区間だったら「自由席」ボタンで買えてもいいと思うぞ。一番先に行き先を入力するんだから、自由席扱い区間かどうかは分かるでしょうに。
それと「立席(たちせき)」という業界用語も、字ヅラからして矛盾に満ちてて分かりにくいんで、なるべく客に対しては使うべきでないと思うが。
んで乗り込んだ はやて がこれが、途中各駅(いわて沼宮内、二戸)にいちいち停まる通称「おそて」だったりして。まぁこういう便は途中駅利用者にとっては必要なものだけど、終点直行の人にとっては、なんか少し損した感じがするよね。
八戸駅からはバス。この日は「乗り物はすべてプロにオマカセ」なもんだから。ちょうど発車寸前だった八戸市営バスに「ラッキー!」と乗ったら間違えてひとつ前のバス停で降りてしまってさ、そこから徒歩。最後の最後でちょいとツラいミスやらかしてしまいましたな。田舎道はバス停の間隔も長いもんだから。いやもう寒風吹きすさんでたですよ。夜で気温も思う存分に落ちてたし。
そんでようやく家にたどり着いたんだが、ん〜でも盛岡の昼間の方が寒かった気がするのは気のせいか?
この日帰りの旅の間中、何かひとつ大事なことを忘れているような気がしてた。そしてこれを書いてる今、ようやくそれが何なのか分かった。
フラッと入った食堂とか新幹線で飲むビールって、なんでかうまいんだよな〜。こんな大事なことを忘れていたとは不覚じゃった。今度こそは……と強く心に決めた、っつうあたりを今回の旅で学んだことにしとこ(いいのかそんなんで)。
「アイディアを寝かしておく」というやり方も、一応の効果があるらしい。
「遠い昔、銀河系の彼方で……」っつうか 2001.7.25 で出た、水を冷媒にしたエアコンの考え、当時は単なるアイディアでかなり漠然としてたんだけど、3年半寝かしといたらなんぼか具体的になってきた。とりあえずもうヤカンとサラシと掃除機で実験機を作ってみる段階じゃなく、それ専用のメカとして考えてみる(結局実験機は作れずじまいだったわけだが)。
原理は「容器の内部気圧を下げれば、容器内の水は蒸発しやすくなる → 気化熱を奪いやすくなる → 水が入った低圧容器の外側に触れている空気が冷える」っつうこと。この考えを押し進めたら、「内圧をすごく下げれば室温で沸騰する → 気化熱奪いまくり」にたどり着いた。
さらにもうひとつ。
「冷却する予定の空気を断熱圧縮すればその空気の温度が上がり、冷媒(水)の沸点を上げられる → 容器内圧をあまり下げなくていい → 真空ポンプや配管の性能をなりなりに出来る → 安上がり」。
そこらへんコストや性能を鑑みて選ぶと、けっこう現実的なものが出来上がるんではないのかと。
こうして書き出してみたら、相変わらず漠然だな(汗)、とりあえず空気加圧ポンプを考えず、真空ポンプのみで作る場合で考える。現実にそこまで出来る市販品の、しかも買えそうな価格の真空ポンプが存在するのかどうか調べてみた。
まず到達圧力。気温(=水温)摂氏27度以上でエアコンをつけたくなるとする。『工業熱力学通論』(日刊工業新聞社)付録の飽和蒸気表によれば、27℃で水が沸騰するとき、容器内圧は0.0035636MPa [メガパスカル](= 3.5636kPa [キロパスカル] ≒ 0.0364気圧)だそうで。大気圧の3.64%以下の真空を作らなきゃいかん。
これ、かなり条件キツい気がしたけど、あった。既製品の真空ポンプで。探せばあるもんだな〜。
アルバック機工社(ULVAC KIKO Inc.)の DA-41D, DA-41DK, DA-121D あたり。一般家庭で使うぶんには、サイズ、電源からして DA-41D か DA-41DK が最適かと。してお値段はいかほど?
けっこうしますですな。ちなみに土日祝日だと5%引きで消費税ぶんお得。DA-41DK の値段は発見できず。それにしても販売の「住友グレンジャー」、すごいお強そうなご芳名。名前のストロングさでついにドルフ・ラングレンを超えたか? そのスーパー巨大ロボットみたいなお名前に免じて住友グレンジャーさん、もう少し安くなりませんかね。普通のエアコンだって工賃込みで7万もありゃいいの買えちゃいますよ。
値段はさておき、このままで水冷媒エアコンが出来りゃ仕組みも簡単だしいいことずくめだったけど、どうもそんなに甘くはないらしい。というのもさっきのは、全くロスがない理想状態での考えだったから。その理想状態でギリギリの線なんで、もう少し余裕を見なきゃいかん。
現実には配管の途中で空気漏れするかもしんないし、真空ポンプも使ってるうちにヘタレてくるかもしんない。そうすると到達圧力、ひいては冷媒の沸点が上がっちゃって冷媒を沸騰させられない。はたまた室温27℃未満でエアコンを動かしたくなるときもあるだろうし。26℃(飽和圧力 0.0033597MPa [メガパスカル] = 3.3597kPa [キロパスカル] ≒ 0.034気圧)まではこの真空ポンプでギリギリどうにかなるけど、室温がそれ以下だと沸騰しないってばこの冷媒。
でもこれ以上の性能を求めるのはコスト的にツラそう。
つうことで次なる手段:「冷却予定の空気を断熱圧縮して昇温させる」を考えてみようかと。これなら、水が入った低圧容器内の沸点を上げても大丈夫かも。真空ポンプ側の条件を大幅に緩くできるかも。
……、
……、
……。
考えたのは今のところここまで。これ以降を具体的に考えてるわけでもなし。資料を読んだり計算したりで条件見つけて、それに合った真空ポンプと加圧ポンプで安いのが見つかればいいけど。あと、やる気が続けばいいけど。やる気なくなったらまた3年半待ちですかね (-▽-;)
一般的な掃除機を真空ポンプとして使った場合の到達圧力を調べたけど見つけられなかった。そういう使い方を想定してないんだろうなぁ。当然か。
ちなみに普通の使い方(空気が掃除機内に自由に流入できる状態)をした場合、掃除機内は0.9気圧くらいになるらしい。知りたいのは、吸気口を密閉したときにどのくらいまで内部気圧を下げられるかっつうことなんだが。気圧計なんつう気の利いたものは持ってないんで、公開データを参考にできればなぁ、と。
でもこういうファン式のポンプの場合、そういう想定外なマネをするとモーターが焼き付いてしまう気もする。排気の風力でモーターの冷却もしてるみたいだし。
アルバックの DA-41D の『使用上の注意』に、吸入する気体に水分が含まれてちゃそのまま使えない、みたいなことが書いてあるなぁ。いやあの、真空ポンプに吸入させたい気体はもろに水蒸気なんだが。
強そうな名前には「グレン」が付けばいいのかというとそうでもない。マジンガーシリーズ3作目の『グレンダイザー』なんて、浴槽や排水管の汚れ専用の研磨剤入り洗剤の名前みたいだし。この道は意外と奥が深いのだよ(どんな道だよ)。
意外なソックリさん発見。
垢こすり用ヘチマ |
と |
フランスパン |
まぁなんつーかその、食ったときの歯ごたえとか。いや、垢こすりヘチマ食ったことないけど。
君は覚えているか? 2年前のあの騒動を。
いやあの「君は覚えているか?」って言葉を一度使ってみたかったっつうだけなんだけど(汗)、おととしの日記で、2月11日 から 4月12日 のまるまる2カ月、合計31回に渡って、Power Mac G4 AGP 400MHz の CPU を1.2GHz にせんがために悪戦苦闘したわけだ(つまりその2カ月間、2日に1回はこの話題だった)。
結局2回の返品・交換により 1.2GHz のはずだったのが 1.25GHz になって、なんだかちょっと得したような、うまいことごまかされたような感じだったんだが、今まで問題なく動作して、パワー3倍シャア専用のありがたみを享受してきた。
あれから CPU 本体はまともに稼働してるけど、あのとき仕込んだ冷却対策部品にガタが出始めてきて。去年の秋頃から直列ファン(写真1, 写真2)から異音が出るようになってしまってさ。放っておくと勝手に直ってたんで気にしてなかったけど、最近は異音がほとんど鳴りっぱなし。で、さっきとうとうメンテナンス遂行。つうか、相変わらず SETI@home を四六時中回しっぱなしで、その異音を聞きながら熟睡できるようになったのもどうかと思う。
筐体のフタを開けて見ると、上流側のファンがほとんど止まりそう。この2年で筐体内部にずいぶん綿埃が溜まった。直列ファンにもかなり絡み付いてた。そいつを千枚通しで取り除いても効果なし。まだ回転がおかしい。
直列ファンを固定してるブチルゴム両面テープの余りが見つかったんで(改造当時に買ったもの)、いよいよファンをばらしての点検。この両面テープの癖は知り尽くしてるからね。昔取った杵柄ってやつで。いや、ラジコンカーでサーボや受信機の固定用に普及してたんだわこれ。
その前に普及していたスポンジタイプの両面テープは超強力な粘着力が売りだったけど、あまりにも強力なため、いざ剥がすときに間のスポンジの部分で裂けてしまって、メカプレート・サーボの両方にカスが強力にへばりついたままという最高にブルースな結果を招いてしまってた。これ、ベンジンかシンナーを含んだウエスでしつこくしつこく拭いてやらないと取れない。ものすごく手間かかるわけ。
そこで、確か青柳金属工業(AYK)だったかがどこかからか持ち込んだのが、ブチルゴム両面テープ。粘着材とベース材がひとつの素材なんで、剥がすときにカスが残りにくい。もしカスが残っても簡単に取れる。スポンジ式より粘着力が弱いのが欠点だったけど、剥がれたらまた手軽に貼り直せばいいわけで、利点の方がはるかに上回ってた。
この便利さは衝撃とともにラジコンユーザたちの間に受け入れられ、ラジコン界での両面テープシェアは瞬く間にブチルゴムに塗り替えられていった。AYK 製に限らず、どこのキットでも、ついてくるのはブチルゴム両面テープのみになった。実際にその移行期に居合わせた人で、ブチルゴムの恩恵に感謝しなかった人はいなかったと思う。それほど天晴な技術革新だった。
ラジコンカーのお便利小物部品は大抵は電工関係の部品が流用されてたんで、こいつもそこらから来たのかもしれんな。結束バンドもヒシチューブもシリコン被覆コードも、電工業界から流れてきたんだよな。
おととしの今頃はたまたま Windows 業界の方で CPU 冷却が大ブームだったんで、地元の PC 屋にも冷却関係の部品が多く並んでた。そこで冷却ファン固定用としてブチルゴム両面テープが出てるのを見つけたときは、迷いはなかった。「あの、夢の新型両面テープ」に再びすがる日が来たかと感激にむせぶのを禁じ得なかった。しかし長らく見ないうちに、ずいぶん厚手になったなぁ。
ブチルゴム両面テープを手にしばし時の流れの感慨に浸ったりしてから、メンテナンスに取りかかった。やっぱしプチルゴム最高だわ。はじめにマイナスドライバーをテコに使うだけで、あとは手だけで剥がれちゃうし。粘着ゴムだから、基盤に残ったカスは指でこするだけで丸まって取れるし、集めるとピタピタくっつきあって捨てるの楽だし。ついでにそこらへんの埃も両面テープクズの玉で拭き取ったりして。
直列ファンのネジを外してそれぞれを掃除。Mac は起動させっぱなし。ファンを回転させてないと、直ったかどうか確認できないんで。指で押さえて止めたりもするけど、短時間なら大丈夫っぽい。でもいくら掃除しても復活の兆しなし。挙げ句の果てに外枠からモーター&ファンを外して掃除したけど、それでも変わりなし。
つうことは、モーターの内部がイカレてるっぽい。
それだともうどうしようもない。
下流側のファンは元気なんで、コンビ解消ってことで上流側ファンはコードをぶった切ってお払い箱。さらば涙と言おう。これからは下流側のみピンでステージを務めるのだ。
件の CPU ドータカード製造元の Sonnet 社は、今はもっとごっつい CPU アップグレードキットを作ってる。おいらが買った当時はヒートシンクはデフォルトのものをそのまま使うことになってたけど、 今の製品だと、専用のファン付きヒートシンクを使うようになってる。
デュアル CPU でもファン1個で大丈夫っつうこと。 だったらうちの環境(シングル CPU)じゃなおさらファン1個で充分だろう、と。それでもファン2個の直列配置なんて他に誰もやってなくて、けっこう気に入ってたわけだが。
いつか同じ規格のファンを店先で見つけたらならば必ずや買い求め、是非また直列配置してやろうと思ってるわけだ。ということで、生き残ったファンには上流側ファン固定用のネジをそのまま残しといた。
ついでにこの志を忘れぬよう、
2本のネジの遠近感がうまいこと出た (^▽^)
写真右下隅でこっちに向かって屹立してる紺色の物体は、電話。ケータイ。カメラモードにして、ライト ON で光量を少しでも多く確保したってわけ。写したい部分が暗がりで、しかもファンの部品が黒かったんで。
その隣のメモリスロットが4本全部埋まってリッチそうだけど、上の2枚は 512MB で、搭載可能なものとしては最高なものを投入しておる。でも3番目、4番目はそれぞれ 64MB と 32MB という、あってもなくても別にどうでもいいようなゴミメモリだったりする。「せっかくあるんだからもったいない」という、モロにビンボ臭い理由で使用中 (^^;)
ついでにノートンダクト(写真1, 写真2 ノートンの製品がハードウエアとして機能したのは、これが恐らく世界初(笑))も綻び始めてたんで、セロテープで補修かけといた(世界初とは言え、扱いは相変わらずテキトー)。
写真左に「淡麗」と出てるのは、発泡酒の缶で作った自作フード。これがヒートシンクに被さってダクトを形成し、風の下流に位置するノートンダクトに接続。熱い空気はそれらを通って筐体前面に導かれ、かつてスピーカーがあった穴から筐体外に直接排出されるんで、熱くなってしまった空気を再びファンが吸い込むことがない自慢の冷却システムなのだ。
「淡麗フード」は、将来的にはバドワイザーかハイネケンの缶にアップグレードしたいっす。
「風の噂」ってたまには逆流するものなんでしょうか。
君は覚えているか?(←また使ってみたくなった) おととしのクリスマスイブに、年賀状の宛名印刷で頼みの綱の複合機がトラブって、うちの職場が男祭り状態になった、あの事件を。ていうかついこの前、去年のクリスマスイブ付けの日記でその話を蒸し返したばっかりなんだけど、いや、つい今さっき、ほんと久しぶりにその会社の営業さんが挨拶に来たよ。
彼の目的は3つあった。今度開催する事務機器フェアの案内が目的のひとつ。2つ目は新製品の紹介。3番目は、おととしの事件の日にサービスマン相手においらが散々にこき下ろした、件の複合機の使い勝手の悪さや分かりにくさをきちんと伺うことだった。
その会社内でおいらが上記のことで煙たがられてるという風の噂を聞きつけて、去年の12月24日にそのことを書いたわけだが、もしかしてその会社の人、それ読んだんかね? ついでにおととしの事件を一部始終書いたのも。んでおいらがどこの誰だか特定できちゃった? だったらどうも読んでくれてありがとうございます。
あるいは逆流した風の噂を聞きつけて、おいらを取りなしに来たとか。
あるいはフェアの紹介だけの理由でたまたま? それはないな。おいらが複合機の操作性に不満を持ってることをわざわざ話題に出して、丹念に聞いて行ってくれたからな。
さっき来た営業さん、前までの「うちはマイクロソフトの提灯持ちなんだからお宅も早く Windows に切り替えて下さい」というゴリ押し君たちとは違ってた。
「今度出たレーザープリンタのカタログです。そちらでお使いの Mac でちゃんと使えます」と Mac 対応を強調してきた。今バンフをよく見たら相変わらず Windows が標準対応で、Mac と UNIX はオプション対応。実情は前とあんまり変わってなかったりする。しかしこれが正しい営業の姿勢なのではなかろうか。「とにかくうちに合わせろ」じゃなく、あくまで相手の都合に合わせようという心意気に、それがしチト心打たれたぞよ。
複合機のコピー機能の使い勝手の不満を一通り説明したら、それを少しは解消できるショートカット的用法を教えてくれた。相変わらず分かりにくいけど。FAX 機能の操作性では、ある条件下でなぜか自動サイズ読み取り機能が働かないせいで、いかに使いにくくなってるか実演してみせたら、納得してくれた。これは彼にも妙案なし。
この営業さんがひとつひとつをきちんと受け止めてくれたんで、こっちもボルテージが上がることもなく淡々と説明できた。気休めや慰めじゃなく、「これ、開発が悪いんですよ。営業は何も悪くないです」と伝えたよ。それにしても、相手からの扱われ方によって自分の態度もまた随分と変わるもんなんだな。自分で思ってるより自分は現金な性格だったということだな。
その場その時の状況や気分によって、自分の精神的立ち位置が思ってたより激しく揺らぐことが分かってしまったわけだ。
大抵の人は、自分の実際の現金さに対して、「自分はそこまでひどくない」と見積もってると思う。そのギャップが、体面やプライドっつう、自分で制御しにくい難物を心の中に生み育てるんではないかのねぇ。それがいい面に働けば人格はより完成に近づくし、悪く働けば、他人の存在意義を忘れて、自分の欲求を満たすことしか考えないウンコ野郎に傾いてしまう、って感じかな。
なんか、何から何まで『スター・ウォーズ』のフォースがそれをそのまんま表してるように思えてきた。これからは暗黒面に我が身を落ち着けてしまわぬよう気をつけねばならんなぁ。なんちて。
今日来た営業さん、たくさん学ばせていただきました。どうもありがとう。フォースと共にあらんことを。
追伸:一応言っとくけど、新興宗教とか自己啓発セミナーとかには入ってないっす。入る気もなし。
長いこと放ったらかしにしちまったよな〜。前回は7月13日。まる半年かい。『聖地巡礼之旅』ついに今日完結。かなり忘れてしまってるけど、根性で思い出しながら書くのだ。やる気が出てるうちにとっとと書くのだ。
とりあえず前回までの目次を書いとくよ。
聖地巡礼之旅シリーズ もくじ | ||
1. | 自分への言い訳さがし | 2004.5.6 |
2. | 鉄のお守り | 2004.5.7 |
3. | 清算鉄道員の作法 | 2004.5.8 |
4. | 聖地でのお約束 | 2004.5.11 |
5. | 中古信者の楼閣 | 2004.5.12 |
6. | その国道の果てを想う | 2004.5.15 |
番外 | The Yads (ザ・宿ズ) | 2004.5.16 |
7. | 封印の理由(わけ) | 2004.5.20 |
8. | ベイゴとベーグル | 2004.5.31 |
9. | 真実のアングラ秋葉原 | 2004.6.7 |
10. | 意外と遥かなる札幌 | 2004.6.8 |
11. | 宇宙へのトリコロール | 2004.6.12 |
12. | 聖地にて支払うお布施 | 2004.6.26 |
13. | 悩殺国立美術館 | 2004.6.27 |
14. | 特急料金の罠 | 2004.7.2 |
15. | マリモタイムカプセル | 2004.7.13 |
今思うと、おいらはけっこう運というものに助けられてきてるんじゃないかと。当時を振り返りながらこれを書いてるうちに、なんだかそう思えてきた。
秋葉原で買い付けたブツ(iMac DV 400MHz)は5月8日(土曜)に届いた。その日は起動確認だけしておしまい。OS 9.1 がちゃんと立ち上がったんでよしとしよう。
次の日に職場に持ち込んで立ち上げ。っつうかもろにハードディスク(HD)の入れ替え。その日まで職場のメイン機だった iMac 350MHz(ブルーベリーっていうか水色)と、前日に届いた iMac DV 400MHz(ライムっていうか黄緑)同士で。
前に、Performa 6410 で使ってた Mac OS 9 システム入り HD を Power Mac G3(青白)に積んだら問題なく動いた上に、返す刀でその HD を iMac 350MHz に積んでもまだ動いたってことがあったしな。それでいったら同時期のグレード違うだけのモデル同士なら問題なんぞあろうはずがないのだ。そこらは経験に基づく確信ってやつさ。うははははははははは。では作業開始。
2台の iMac を机の上に並べる。なんか壮観。
それぞれの前に座布団を敷いて、顔(モニタ)を座布団にうずめさせる。
シンクロナイズドで逆立ちしたおむすび iMac。かなり壮観。
それぞれの座布団を回して、iMac の腹をこっちに向ける。ものすご壮観。
双方同時に開腹開始。なんかマグロ解体ショーっぽくなってきたかも。いやシンクロナイズド解体ってのはないか。木ネジを外し、パネルを外し、また木ネジを外し、電磁波シールドを外してようやく内部にアクセスできる。
解体中の2台は同じ時期のモデルで基本的に設計が同じ。違いはてっきり「クロック数」「FireWire (IEEE1394) 端子の有無」だけだと思ってたら、作業途中にもうひとつ気がついた。「外部モニタ端子の有無」。そんなとこも違うのか。
まぁ外部モニタなんかつながないけどね。使う人にとっては便利なんでしょうな。おいらにゃ関係ないやね。作業は進む。
HD の入れ替えついでにメモリも入れ替え。350MHz マシンに積んでる 512MB メモリと 400MHz マシンに付いてきた 256MB のとを交換。見落としがないか確認しながら2台同時進行で組み立て。そういやマグロ解体ショーはあるけど、解体したマグロを組み立てるショーってないよな。やる意味ないか。
ほんじゃまぁうまく行くことは分かり切ってるけど、一応確認してみますか、と電源をポチッとな。OS 9 の起動はよし。一緒に入ってる OS X はどうなんだ。フツーに起動するに決まってっけどさ。
いやあの、起動してみたらさ、いきなり画面がバラ色になってしまって。緑の信号が死んでるらしい。再起動したら、バラ色のまま画面の左上4分の1の部分に画面全体が縮小表示されてんの。画面の他の部分は真っ黒。
それ見たあたりからなんかこう、あまりに信じられない展開に、ワキの下と背中からイヤな汗がドバドバ出てくるのが分かったよ。なんか目まいと吐き気もしてきた。
また再起動したら、画面は全く何も表示しなくなった。どんどんヤバい方向に転落してるんだが。しかももはや OS 9 でも同じことになってしまってるし。万事休す? (T□T;)
電源ランプは「通常状態」を表す緑色に点灯。これ、いわゆる「GLOD (Green Light of Death)」ってやつでしょうか。この型より前のもので出たトラブルだそうだけど、なんか症状が酷似してるんですが。買っていきなり修理か?
中古品だからメーカーサポートはアウト。販売店サポートにすがってみるか。しかし初めてだな〜サポートに頼るのって。大丈夫なんだろうか、と心配だったけど他に何もできなかったんで、こいつを買った Do-夢のサポートに電話を入れてみた。
「ファームウェアが古いと OS X 起動でそうなることがありますが、そこは確認されましたか?」
おお、それ知らなんだ! そうかもしれん。ていうかそうであってくれ! それだと話は簡単だ!……けど、モニタが死んでるこの現状で、どうやってファームウェアのバージョンを調べたらよろしいんでしょうか。
「そのモデルですと、後ろの底の方に外部モニタの端子ないですか? 他のモニタをそこにつなぐと表示できると思いますよ」
な、何ですと!? ありますあります外部モニタ端子! いやもう早速うち帰って、FreeBSD マシンに使ってる ViewSonic15 インチ持ってきて試したですよ。
サポートさんのお見立てドンピシャ。ファームウェアのバージョンが古かった。ネット接続して最新版を落として入れたら一発で直っただよ。あんまし嬉しくてサポートの担当さんにお礼言いまくり。今思うと担当さん、ちょっと困ってた感じだったな。感謝しすぎるのもあまりよろしくないらしい。でもスンゲー嬉しくてさ〜。
それにしても、外部モニタなんかつながないけどねと無意味扱いしてた外部モニタ端子、いきなり役に立ってやんの。これ、下位モデルの 350MHzのやつ(水色の方)にはこの端子は付いてないんだけど、同じ問題が発生したらどうやって直すんだろ。うちの場合は、知らずにいつだったかファームウェアを更新してたみたいだから(確認したら最新のになってた)、OS X を入れても問題なかったけど。更新した記憶もないんだけど、結果オーライってやつだな。
この 350MHz の iMac は人づてに買わされたやつだったから、この問題が出てれば完全にお手上げだった可能性もあるなぁ。「経験に基づく確信」って一体……。
とにかく結果オーライっつうことで(汗)。あれから8カ月経った今まで、ずっと快調に稼働してるよ iMac DV 400MHz。あの旅も含めて、こうなるまでにはいろいろあったやね。ちなみにあの一件以来、外部モニタ端子はやっぱし一度も使ってない。外部モニタ端子、実はあのトラブル用に存在するんかな?
いろんな聖地を巡るあの旅をして最後に見つけた得た自分の姿は、「足元を見るのを忘れて高笑いしながら、実は崖っぷちギリギリを練り歩いていた間抜け野郎」だったってことになるんすかね (-▽-;)
「悪運の強さ」もか (T▽T;;) アハハ
もくじ作りながら、「たかが1泊の旅行でどうすりゃ計16話 + 番外編になるかねぇ」と我ながら呆れてしまったり。旅の日記は今までいくつかあったけど、ダントツで最長だぞこれ。
今回の旅で Mac を買ったお店:Do-夢(ドーム)のサイト、けっこう面白いよ。ホームの下の方の、社員さんたちの日記がイイ〜感じで。DOS/V ノートの中古でいい出物がないかと見に行ったついでに愛読してたりする。
もひとつ意外なソックリさん。
もげた昆虫の足 |
と |
抜いた鼻毛 |
爪で挟んでついた折り目が、関節を思わせる……。
いや、故意ってわけでもないんだけど『聖地巡礼之旅』を書き終えたってんで、(以下は次の日)
ちょっと燃え尽きてたと言うか(以下は次の日)
ほとんど成仏してました (^_^;)>
欲しかった本をようやく手に入れたよ。さすが今人気の本らしく、平積みで売られてた。
ははぁ、Amazon.com のレビューだと、お子様向けに買われた方もいらっしゃいましたか。本の内容は映画だったら R-15 指定くらいだよなぁ。そいつは御愁傷様って感じだけど、どんなもんなのか買う前に少し立ち読みすれば済んだ話だと思うが。本文にルビ振ってないところからもその可能性は察せられたんじゃないかと。でもタイトルが平仮名だってところが、子供向けとして誤解されやすそうではあるな。
あ、そうか Amazon.com じゃ立ち読みできんわな。
おいら的には期待通りの面白さだったっすよ。ちゃんと立ち読みで内容確認して、納得して買ったし。んで、あまりの面白さに一気に読み終えちまっただよ。
やっぱしさ、形態で大胆にヘンテコな生物ってのは、大抵は海の生き物なんだよ。重力の束縛がないっつうことが、生物としてのデザインを大胆にいろいろ試せてるというか、かなり無茶っぽい形で無理っぽい生態やってても、それなりに食っていけるというか。
重力から解放されてるっつうことは、まず、陸上の生き物に比べて自身が身軽だってことだな。水に浮くってのは空を飛ぶより簡単にできるわけで、サメみたいに生まれてから死ぬまでずっと泳ぎっぱなしなんてのも可能になるわけだ。鳥で一生飛びっぱなしなんてちょっと考えられんしな。
泳げないやつでも、貝とかナマコとかは地上じゃ自力で1ミリも移動できないけど、水中だと少しは移動できる。プランクトンなんかは自力移動を諦めて、海の水に浮いたまま海流や波で流されてるわけで(これも「無重力」のなせる技)、他の海生生物にとっては、エサが目の前を流れてるってことになる。地上の生物に比べて、「生きる」という活動のハードルが低いわけですなぁ。
しかしまぁ外形がヘンテコな生き物は海に多いのは予想がついてたけど、大型の魚でも変なやつがいるんだね。4番目に紹介されてるウバザメってのがなかなかインパクト強くて。「貴様それでもサメか!」とツッコミたくなるよな脱力系。口以外は立派なサメのナリしてるんだけどなぁ。「その口なんとかなんねーの?」って感じで。サメのくせにプランクトンを主食に選んだ結果こうなった、ということで合理的ではあるけど。その生き様、世知辛い陸上じゃ通用しませんぜウバザメの旦那。
このウバザメがあの未確認生物の正体だったということも知って、なんだか得した気分。
海の生き物の方が大胆な形になれるのは道理だけど、昆虫やそれ以下のサイズなら、自重に煩わされる度合いも、人間サイズやそれ以上の大きさの陸生生物の感覚に比べたら、意外と大したことなかったりする。
足の骨の太さを例にすると、ある生物が相似形のまま大きく成長していくと考えると、体が大きくなるに従って、体を支える骨の断面積はその2乗に比例して大きくなる。「なんだ大丈夫だべが」って気がするけど、ところがどっこい体重はサイズの3乗に比例して重くなる。ということで、そのまま単純に巨大化していくと、いずれ骨の強度と体重とのバランスが破綻して、その生き物は立つことができなくなる。
生物のデザインには、陸上では重力がそういう意味で支配的な影響を及ぼすんで、例えば昆虫はあのサイズだからこそ、体に比べて足があんなに細くても立ったり歩いたり飛び跳ねたりできるわけで、ヒトのサイズならヒトのサイズなりの、ゾウのサイズならゾウのサイズなりの足の太さ(骨の太さ)じゃないと、立つことさえろくにできないわけだ。
でもさ、昆虫は小型化の恩恵で地上の生き物にしてはデザインの自由が効くからって、どこをどうすりゃ『へんないきもの』で紹介されてるヨツコブノゼミの形に行き着くんだ?(謎)
この本でも「理由は未だによくわかっていない」とある。ほんと、細密なイラストを見れば見るほどわけ分かんなくなってくる。
おお、諸君見給え。ヨツコブノゼミの写真を発見したぞ。
マジで意味わかんねぇこの八木アンテナみたいなコブ。サイズが小さいから、上述の二乗三乗の法則によりそう簡単にポキッといったりはしないとは思うけど、なきゃなくても別に構わんような気もするっつうか、見た感じでもうただの邪魔にしかなってない気がするんだが。ほんと何の意味あるんだろこれ。
飛ぶ物体としては、このセミのそれぞれのコブ、後ろも丸まってるのが気になる。普通の飛行機の設計なんかだとちょっと無粋というか、余分に空力抵抗が発生しそうな感じがする。
でもこのまえ盛岡に行ったとき買った本、『いまさら流体力学?』によると、流体抵抗には圧力抵抗と摩擦抵抗の2種類がある。流体の慣性が重視される状況なら圧力抵抗(流体中の物体の前部と後部の圧力差が作り出す抵抗)が支配的で、流体の粘性が重視される状況なら摩擦抵抗が支配的。昆虫サイズだと、空気の慣性より粘性が支配的らしい。
つうことで、ヨツコブノゼミの場合は空気の慣性があまり影響しないんで、コブの後ろが丸まってても別に大した抵抗増にはならないと思われる。
それより、空気の粘性が抵抗の発生に大きく影響するんだとしたら、コブと支柱に生えてる毛がかなり抵抗を作りそうなんだが。
しばらくこの本で悩めそう(笑)
過去写真を整理してたら、おととし幕張メッセの物産展に行ったときの立体写真が出てきたよ。2002年にも幕張で、茨城県在住の夫婦に拉致された(2002.12.2, 2002.12.3, 2002.12.6, 2002.12.7)わけだが、実は同じ夫婦によって2003年もまた拉致されてさ、またこのときもすごく楽しくて。
日記には書いてなかったけど、『入水鍾乳洞』っつうところに探検しに行ったりして。しかしこの写真の女の子よく笑ってられるな。おいらかなり必死だったぞ。相当の手練と見た。
んでその帰り、郡山から新幹線に乗るのに JR 東日本の磐越東線に乗ったんだわ。小野新町駅から。そのときの電車を立体撮影してたのを忘れてたよ。ええと車両の番号は「キハ111-107」だそうで。外ヅラを立体撮影しても面白くも何ともないんで、
を撮ってきたよ。通路の方は、車両先頭までの距離感と整理券発券機の立ちっぷりがいい感じ。運転席は、レバー類の浮き上がりぶりと足元の奥行き感ですか。
画像がボケ気味だけど、これ、iショットL(288×352)で撮影しちゃってさ。当時はケータイから自分のパソコンに撮影画像落とすのに、わざわざ電話代払って iショット送信してたんで、このサイズが上限だったのよ。んで、パソコン内でいったんこれを 480×640 にブローアップしてから編集したんで、こうなっちゃった。でも立体視すると、2枚の画像を脳内合成する段階で情報を補完し合ってクッキリ感アップなのよ〜ってことで、今回のリリースと相成りました。
まだ古いやつあるな〜。また暇見て編集しとくべ。
昨日、八戸フォーラムのレイトショーに行こうとしたんさ。そしたら観たい映画が同じ時間に始まることになってたんさ。『北の零年』と『パッチギ!』。
結局、「上映時間が短いから」という理由で『バッチギ!』に決定。それでも2時間まるまるだったけど。
悪くないね『パッチギ!』。取り立てて素晴らしいって程でもない感じだけど。んで、『オーバードライヴ』の時も言ったけど、どうして日本映画は必ず2時間の大台に乗っちゃうんだろ。『パッチギ!』は内容から行ったら 100〜110分ものだと思うんだけど(『オーバードライヴ』は70〜90分)。そういう暗黙のルールがほんとに存在するんじゃないのか? だとしたら、こんな無意味な約束事は金輪際やめていただきたい。
ストーリーの進み具合が曖昧なのは、そういうジャンルやスタイルだということで OK だけど、ケレンでも何でもいいから、ツナギに面白いものを随所にもっと詰め込んでくれないと、どうしても飽きてしまうんだよな(面白くないケレンは論外だけど)。途中で時計を見たくなったよ。まぁ実際には時計を見なかったというあたりが、この映画にそれなりの魅力があったってことになるか。
観た人の話では、『北の零年』がすごくいいらしい。涙なくして見られないらしい。けど、
東映ってぇとあの東映節なのかねぇ今回も。出演者をひたすら泣かして観客にもらい泣きさせる意図ミエミエの、めっさクサくて沸点の低い段取り&演出。それが東映節。
確かに泣けて気持ちいいにはいいんだけど、同時にすごく悔しかったりするのな。「また引っかかっちまった!」と。
一応、期待しないで観てみるとするか。今は立ち見状態らしいんで、もう少し経って客足が落ちてからでいいや。
『パッチギ!』で観光バスをぶっ倒す場面があるんだけど、ああいう骨董級の乗り物にあんなことしちゃう勇気に拍手。それとも意外と手に入りやすいのかなあの手のバス。
昨晩は八戸フォーラムの映画仲間の皆様と飲み会。で、FM 番組『八戸フォーラム シネサロン』にて『用心棒』をアツく語られたお方に、『用心棒』にまつわる積年の疑問をぶつけてみた。
「あの映画に出て来る『カンヌキ』って役名の大男、
そしたら答えは「違うよ! あの『羅生門ナントカ』って芸名の人のことでしょ? あの人はれっきとした専業の役者さん。それに馬場はあの時もうプロレスで一旗揚げてたんだから違うってば」
ご教授ありがとうございました m(_ _)m ハハ〜
そうだったのか……。どこからどう見てもジャイアント馬場そのものにしか見えなくて。「ここは地獄の一丁目よ。そっちは地獄の二丁目だ」の声もそのまんまだしさ。「素人の割に芝居うまいよな〜馬場」と勝手に勘違いしてたわ……。
シドニーオリンピックで疑惑の判定で銀メダリストになってしまった、柔道の篠原信一もどことなく似てるな。瓜二つってほどじゃないけど。巨躯の日本人ってあんな感じのお顔立ちになりがちなんかねぇ。
車椅子は、たまに乗るぶんにはけっこう楽しい。バリアフリーの考え方を利用して、どうにか歩行健常者でも車椅子に普通に乗れるようにならないものか。
こんなことを言うのは、自分の足で歩きたいのに仕方なく車椅子を使っておられる方々に対して失礼ではあるけど、正直な気持ちとして、車椅子にたまに乗るのはけっこう楽しい。足に何の障害もない人が車椅子に乗れる機会があまりないこの現状を、どうにかできないものなのか。
車椅子に対する考え方として、最近では「眼鏡のようなもの」というのがあるそうで。その心は、「健常者が良かれと気遣ってくれるのも、あんまりその都度その都度だとうざったく感じてしまうから、いちいち気にしてくれるな」ということかと思う。
眼鏡の例えはなかなか的を射てる気がする。おいらはかなりな近眼で、眼鏡かコンタクトレンズで視力を矯正しないと、まともに生活できん。でも眼鏡やコンタクトレンズは、裸眼と完全に同じ条件に戻してくれるわけじゃない。不完全ではあっても、使わないよりないよりずっとましな生活ができる。そこが車椅子と似てる。
おいらは、コンタクトを持ってはいるけど、手入れがめんどいし慣れるまで痛いから、その過渡期に脱落してしまって、ほとんど使ったことない。ズボラなおいらには眼鏡の方が合ってるってことなんだけど、それでもやっぱし眼鏡には眼鏡の問題がある。
視界の隅っこまではフォローしてくれないから、クルマをバックさせるのに振り向いたとき、必要な視界を確保できない。寒いところでラーメンを食うと曇る。顔面に飛んで来たボールやパンチがヒットすると、いきなり万単位の損失を被る上に、鼻当てが顔に食い込んでしこたま痛い。眼鏡止めなしで全速力で走ると、眼鏡が上下するのに合わせて景色も上下して具合が悪くなる。視力がいい人はいいなぁ楽できて、とたまに思ったりもする。
車椅子は眼鏡のようなもの。足に不自由がない人はいいなぁ楽できて。車椅子をご使用の方々も時々にそう思うこともおありかと、眼鏡を例に想像できる。程度はそんなもんじゃないだろうけど、方向性として。
でもひとつ、現状で車椅子と眼鏡とで、決定的に違うところがある。
ファッションとして、あるいは目の保護用として、伊達眼鏡というものが存在する。視力に何の問題もない人でもわざわざ眼鏡をかけたりする。それが今の世の中。でも、歩行能力に何の問題もないのにわざわざ車椅子に乗る人はいない。
今の世の伊達眼鏡みたいに、未来の世の中で伊達車椅子が普及しないもんだろうか。
なんたってさ、けっこう面白いんだって車椅子に乗るの。ほんとに。福祉会館みたいなところで「ご自由にお使い下さい」と書いてある車椅子に乗って、館内を一回りしたことがあるんだけどさ、あの視線の高さで移動するってのが新鮮で。手漕ぎで進むってのもまたイイ〜イ感じで不思議感覚。
さすがにそれで外に出てみようとは思わなかったけど。必要で車椅子に乗ってる人だと思われて親切にされでもしたら、あまりにも申し訳ないんで。
で、どうやったら伊達車椅子を普及させられるのか。
まずはバリアフリーの更なる推進でしょうな。必要で車椅子に乗ってる人たちが、眼鏡使用者感覚で車椅子を使う社会になることが肝要ですな。つまり、車椅子だろうが足で歩くんだろうが、大して差がない世の中ってやつ。眼鏡をかけてる人に対して、目のいい人がわざわざ気を使うってこと、めったいにないでしょ? そんな感じに持って行ければ良し。そうならないと、どうしても健常者は車椅子利用者に気を使ってしまう。その状態で伊達車椅子はまずいわな。
車椅子の感覚を、いろんなイベントや学校の授業なんかで実際に乗ってもらって知ってもらうのがいいかも。人間誰でも、いつ車椅子を必要とする状況になるか分からんからね。下半身不随みたいな深刻な症例じゃなくても、スキーやバイクで転んで右足骨折 + 左足ねんざをやっちまったとか、ぎっくり腰とかの一時的なものも考えると、けっこうありがちだったりする。そのとき、ぶっつけ本番で四苦八苦するより、いっぺんでも乗ったことがあると、乗りこなせるようになるまでそんなに苦労しないで済むだろう、と。
車椅子乗りを経験しておくと、少しは車椅子使用者の身になって考えることもできるようにもなる。車椅子に乗ってるときどういう感じがするのか、健常者に何をどうされるとどう感じるのか。これ、実際に車椅子に乗ってみないと分からんことが多いと思うよ。
例えば、後ろからいきなり車椅子の取っ手を掴んで、押し始めてから「押してあげましょうか?」なんて言われたら、乗ってる方は思わず頭に来て怒鳴りたくもなるってもんだ。ちょっと考えればそれがどれほど非礼なのか誰でも分かるのに、本当に、ただ良かれと思って思わずやってしまう親切な人ってけっこういるらしいね。
とりあえず移動したかったら自分でできるわけだから(そのための道具が車椅子だし)、今そこで車椅子に乗ってる人が止まってるということは「今そこで止まっていたい」ということなんだよな。それに、車椅子は必要な人にとっては自分の体の一部でもあるんだから、勝手に体を掴まれて予期せぬ方向に勝手に連れられて行くっての、やられる方にとっては暴力を受けてるのに近いものがあるんだわな。
こういう、一見常識に思えるけど実は非常識なことをやっちゃいけない、と身をもって感じてもらうという意味でも、学校の授業の一環なんかで実習するといいんじゃないかと。最近は体育で、着衣水泳なんつう実用的な体験をさせてるみたいだし。
それでですな、こうして車椅子の授業や一般向け講習をするとですな、そのうち何人かは車椅子の面白さに目覚めると思うわけ。プライベートで乗ってみたい、と。そこが伊達車椅子の普及の始まりになる。
普及がうまく成功して伊達車椅子社会が成熟すると、立って歩きたい人や立って歩かないといけない状況の人は立って歩く。車椅子に乗りたい人と車椅子に乗らないと不便な人は車椅子に乗る、となる。
こうなるともう、歩行障害の有無なんて、どうでもいいような些細なことになっちゃう。それで人を区別する意味も必要もなくなる。社会基盤と人の意識の両方の力で、本物のバリアフリー社会を実現させちゃうって寸法だ。
歩行移動に限定した話だったけど、こんなバリアフリーの考え方、どんなもんでしょ。
確かにそれは正しいと思われる。テレビを動物に例えるのなら。でもなんでそう例えなきゃいかんのか。
DIY 店でこんな値札を見かけてしまって。世の中にはこういうのに弱い人もいるってことで(←自分)、この誤植には特に気をつけていただきたく思う今日この頃。
最近気がついたんだけど、魚の腹を切ってワタを出すのは、見てても自分でやっても別に何とも思わないのな。単に慣れの問題なのかねぇ。慣れるまでがキツそうなんで、自分から慣れようとはやっぱし思わんけど。
サイト改装の大仕事、一応完了。どこが変わったかなんてほとんど分かんない地味なところなんだけどさ。
日記の過去ログを全部、HTML 4.01 Transitional 規格(4.01までの全ての規格を許容したもの)にしたのだ。まぁ実際、何でもかんでも 4.01 Transitional と言えるから、元のままでもその称号を名乗れるわけだが、4.01 Strict(それまでの規格とは別の、4.01の独自規格)「寄り」にしたってことで。非推奨タグをやめたり減らしたり、table の属性に summary を追加したり、スタイルシート(CSS)を少し導入したり。
別にそれで、読者さんの環境で劇的に変わったところもなし。ページ作りの採点サイトにかけると多少評価が上がるってだけのことで。古臭い規格のまんまだと、老舗サイトの証しにも確かになるけど、あんまりにも古くさいままじゃちょっと恥ずかしいってわけで。
ああでもひとつ改善したとこあるわ。スタイルシートで行間調整できるようになったんで、早速導入してる。これで過去ログでも行間を少し空けるようにしたんで、読みやすくなったかと(特に Windows 環境で)。
以前には font タグを使って文字を大きくしてたんだけど、これだと CSS の行間調整と折り合いが悪くて、文字が重なったりしてた。んで、font タグを使ってる古いログじゃ行間がビッチリ詰まった仕様しかできなかった。不倶戴天ってやつですか(←少し違う)。
そこで今回、(日記だけだけど)全ページを HTML 4.01 Strict 寄りにして font タグをほぼ全廃。まだ文字色指定で font タグを使ってるけど、サイズ調整用としては完全廃止。晴れて行間を空けられるようになった、と。
「将来的には HTML 4.01 以前の規格の文書はブラウザでサポートされなくなり、表示できなくなる」という話をたまに聞く。なんか明日にでもそういう世の中になりそうな感じで語られることもあるけど、そうはならんと思うぞ。なったとしても何十年も後の話かと。
そんなことになったら、1990年代からウェブ上にずっと存在してる書類が判読不可能になるってことで、そこにどんな貴重な内容が書かれてるかも分からんのに「規格が変わったから」と読めなくなるなんて、ちょっと考えにくい。ソフトウェアはバージョンアップごとに高機能化するものなんだから「新規格の文書を表示できるようになる」という方向は当然分かるとして、「その代わり HTML 4.01 以前の書類の表示機能が削られる」ということにはならないと思う。
変なのは、HTML 4.01 Strict 規格が、下位互換性を保ってないってことなんだよな。
それを吸収するために 4.01 Transitional 規格があるんだけど、それまでどんどん使うように仕向けてきたタグの多くが、この非互換のせいで「あまり勧められないタグ」として石もて追われて、例えば font タグでの文字サイズ調整と CSS での行間調整がぶつかるみたいな事態になってる。
話はこれで終わりじゃなく、さらに XHTML という新規格の時代が来るらしく、実は HTML 4.01 はその橋渡し役らしい。橋渡しの橋渡しが HTML 4.01 Transitional ということで、なんだかもう意味分かんない状況になりつつある。XHTML が真打ちらしいんだけど、「現時点での真打ち」なんで、結局またそれで足りない時代が来て、結局また下位互換性を無視した新規格が作られるんじゃないのかねぇ。「XHTML 規格の文書はいずれ読めなくなるそうだよ」との脅し文句とともに。
新規格が出るごとにサイト作成ソフトを買い替えるってな人なら問題ないかもしれんが、おいらみたいな HTML 手書き派としては、新規格が出るごとにまた1から勉強し直しというのが大変に腹立たしい。こういうふざけたバージョンアップは金輪際やめてほしいんだがね。
規格が新しくなるごとに、だんだんルールが煩雑になってきてるというか敷居が高くなってきてる。そのうえ互換性がないと来たもんだ。実はソフト屋が、手書き派や初心者にホームページ作成ソフトを買わせるべく、裏からそう仕向けてるんじゃないかと勘繰ったり。
生物の生命維持その他に共通で使われるエネルギー源物質がある。アデノシン3リン酸(ATP)、やアデノシン2リン酸(ADP)ってやつ。この燃料を使った、生物の体内でのエネルギー変換というのがものすごく洗練されてるらしく、エネルギー変換効率がやたらいいらしい(数値は知らんけど)。これをそのまま動力に利用できれば、かなりの省エネができるっぽい。
ていうかできる。新技術なんて別に要らない。
地球の生物で恐らく唯一、自分の体に蓄えたエネルギーを無駄に消費しないと健康を保てないもの。それは人類。科学技術の発達がもたらした技術製品を、資本主義経済システムが普及させたことにより、人間は昔に比べて体を動かさなくてよくなった。しかも農業・畜産技術の高度化により飽食。当然太りますわな。そのままじゃ生活習慣病にかかるってんで、蓄えてしまったエネルギーを懸命になって無理に消費してる。でもあまりにも生体のエネルギー変換効率がいいもんだから、かなりハードに運動しないと体重が減ってくれない。
昔から、エネルギー消費型のダイエット法としてはジョギングがポピュラーだったけど、必要以上に太ってる人(おいら含む)って、大体が「太りやすい体質 + 面倒くさがりな性格」だからこそ太るわけで、ジョギングなんてわざわざしなくて済むならそれに越したことはない。ダイエット志願者はそう考えがち。そこで「いかに楽に痩せられるか」でいろんな装置やら器具やら書籍やらが一大市場を成すに至った。
ダイエット方法は数あれど、栄枯盛衰の激しい分野なれど、いまだに根強い人気を誇ってるのが室内自転車。「そんなら外で自転車に乗ればいいじゃんか」と思うけど、交通事故の心配がなく、天気が悪くてもできる、というあたりがウケてる理由かと。
このダイエット用自転車で発電機を回すといいんじゃないのかねぇ。発生した電力は、家庭用太陽電池システムと同じく DC-AC インバータで同期交流電流としてその家の電力回路に流し、家の中で使う。余ったぶんは電線を通じて、電力会社に売電する。
近年、風力発電機や太陽電池が一般家庭に普及してきてるんで、DC-AC インバータや売電のための設備はかなり安くなってきてるはず。
エネルギー消費型ダイエットは「面倒臭がりにいかに働いてもらうか」がその本質なんで、「ただエネルギーを消費します」だけじゃ理由としてまだ足りない。そしてその結果はいつも「飽きちゃって続かなかったよ」。
どうも、その運動にはダイエット以外に何の意味もないというのが、ダイエット志願者たちの心を空しくさせてるような気がする。
そこでこの発電自転車。まず「ダイエットで健康にいい」。そして「発電で家計を助ける」。さらに「環境にいい」。始める理由&続ける理由としてけっこうなものがあるかと思う。確かに発電の過程で二酸化炭素が出るけど、生体のエネルギー変換効率が高いから、油を燃料に発電機を回すのに比べたら排出量はずっと少ない。それにもともとは普通のダイエットで無駄に消費する予定だったエネルギーなわけで、つまりもともとは無駄に排出される予定だった二酸化炭素なわけで。
「自分のために! そして家族のために!! ひいては人類と地球のために!!!」ともなると、ペダルを漕ぐ足にも自然と力がこもろうというもんです。
まぁ「仕事で疲れたお父ちゃんが、うちに帰ったら帰ったで発電自転車を漕がされる。怠けるとご飯を食べさせてもらえない」なんつう悲惨なケースも想像できるけどさ (^^;)
研究社新英和中辞典第6版より
そうか新聞・雑誌のコラムって、「縦長の欄」が由来なのか。で、もともとの意味は「柱」「円柱」なのか。
いや、「コラムシフトのマニュアル車、最近めっきり見なくなったな〜」と思って、イモヅルで「新聞のコラムってなんでコラムなんだ? クルマのギアシフトと何の関係が?」と疑問が湧いてさ。そうかそうか。そういうつながりだったんか。
んでその最近めっきり見なくなったコラムシフト、あれを無性に操作したくなるときがあるんだよな〜。なんかこう、突然かっぱえびせんをむさぼり食いたくなるときってあるよね。かっぱえびせんならコンビニにいつでもあるけど、コラムシフトは絶滅寸前というか、もしかしてもう絶滅しちゃった?
とりあえずコラムシフトをご存知ない方のために解説。
マニュアル車のシフトレバーは運転席と助手席の間にあるのが普通だけど、昔はそうじゃないのも多かった。シフトレバーがハンドルの軸のあたりから生えてるやつ。ワイパーのレバーの向こう側に。これが「コラムシフト」。単語 "column" の意味からすると、ハンドルの軸に並行して付いてる棒(柱)の回転でシフトの動きを伝達することから、この名前が付いたかと思われ。
理由は分からんけど、特に業務用のクルマによく使われてた。トラック、バス、ワゴン車、タクシーなど。さらに、室内空間を大きく取れることから、クラウンとかの高級車にも装備されてた。
業務用のクルマにコラム式が多用されてた理由がよく分からんので、次第にコラム式が駆逐されていった理由もよく分からん。もしかしたら「業務用=ダサい」の流れで嫌われたのかも。
今はオートマが普及したせいで、高級車にははじめからマニュアル仕様がなかったりするよね。ところがそうなったらそうなったで、室内空間を稼ぐために、オートマのシフトレバーとしてコラム式が復活してたりする。
でもさ〜操作してて面白いのは飽くまでマニュアルのコラムなんだよ。おいらもそうだけど、この手のクルマに乗ったことある人は、みんな遠くを見るような目をして、幸せそうな顔でこう言うよ。
と。言いながら頼まれもしないのにその独特なシフト操作の手つきをやってみせてくれたりして。経験者にはかように愛されてるコラムシフト、なんで絶滅したかねぇ。
ここでひとつ頼まれもしないのにその操作方法を解説すると、まずニュートラル位置から手前に引っ張って上に上げるのがロー(1速)。そこから下に下げるのがセコンド(2速)。ニュートラルに入れてから上に押し上げてサード(3速)。そこから下げてトップ(4速)。ニュートラルから向こうに押してから上げるのがオーバートップ(5速)。その位置で下げればバック。ちょうど普通のシフトの鏡写しの配置だね。
最高なのが5速とバックに入れるとき、それまでこっち向けてた左の手のひらを、ノブの上でクリッと向こう向きに返す瞬間なんだな。そんであんまし意味ないんだけど、その態勢で気持ちとパワーをシフトに「ぶち込む」というあの感覚が、コラムラヴァーたちの心を捕らえて離さないのよ。
手のひらが返った瞬間、運転者の中で何かがハジけるのさ。心でいつも「フンガー!」と叫んでたよ。別に力を込めなくてもギアはフツーに入るんだけど、その意気込みが「ゴキッ」という感触とともにクルマに受け入れられる瞬間がもうたまんなくて。まさにその阿吽の呼吸は「行くでぇマメタン!」「はいな〜あんさん!」(©水島新司)の黄金バッテリー誕生の瞬間なのだ。
これ、オートマではもちろんのこと、普通のマニュアルシフトでも感じない「何か」なんだよな〜。そんなステキな想い出だけを僕らに残して、コラム式マニュアル車はなぜかひっそりと消えて行ってしまった。なんて罪作りなやつなんだベケヤロー(慟哭)。
ちょうど今なら、古いマニュアルコラム車がなくなってしまった上にオートマでコラムの採用が増えてきてるから、ダサいイメージはもうないかと思う。復活のチャンスが到来しているのでは?
あの〜三菱自動車さん、ここらでいっちょどうですか「三菱は全車にマニュアルコラム仕様を加えます」と宣言してみちゃ。その触れ込み通りの新車を出すと、あの熱い感動を忘れられないコラムラヴァーたちがこぞって泣いて喜んで飛びついてくること請け合いっすよ。前と同じ轍さえ踏まなきゃ、これで業績不振なんかV字回復さ〜(ほんとかよ)。
ミニでコラムシフトのオプションがあったら、カネ貯めて絶対付けるんだけどな〜。5速ないけどね。つうか狭さゆえに、操作中はそこらへんにしこたま手をぶつけそうな気がする。
なんか今月の日記、妙に長くね? 久しぶりに 120KB の大台に乗っちまっただよ。
今日のぶんを除いて、リモート鯖上で 124.1KB 達成。歴代3位。いや、長モノの日そんな多かったっけ? 全然実感ないんすけど。連休も取ったってのに。そして今日ここでちょっと長めの書くと、歴代2位の座に食い込んでしまいそう。慢性的寝不足解消のために、もっと短くしなきゃいかんのだがね。これも一種のダイエットってやつですか。
現時点での歴代2位は、125.1KB の2004年1月。おお、ちょうど1年前か。何があったんだどれどれ……。
全体的に長話が多いね。今回もそんな感じか。その中でことさら稼いでるのは FreeBSD ネタ何本かと、成人式へのツッコミ3部作。FreeBSD 話は、そのときは興奮してるからガンガン書いちゃうけど、1年もして読み返すと、なんかどうでもいいような内容だね。そのぶん FreeBSD の学習が進んだってことでもあるけど、関係ない人からすると、ただ退屈なヨタ話だなこりゃとようやく気付いた。
つうことで、皆さんも FreeBSD やってください(ォィ)
日記の月別容量歴代1位は、2002年8月。堂々の130.3KB。『スター・ウォーズ EP 2』への4夜連続ツッコミと、胃と腸の悶絶検査話2話とが効いてた。
そういやあれから2年半近く経つのに、次回作の公開も押し迫ってきたというのに、まだお小遣いもらってないなぁルーカス君から(まだ言ってる)。
あ、さらにそういえば腸の検査でポリープが見つかってさ、お医者さんに「取った方がいいですよ」と言われてたのに、今までずっと放置してたわ。今年こそはなんとかしたいんだけど、もしかしたらあの検査を越す艱難辛苦が待ってるんじゃないかと思うとなかなか……。でも今年の目標にするべ。ポリープ切除。
よし。今日はここで切り上げ。サーバに上げてみるよ。
……↑の時点で125.8KB 。とうとう2位にのし上がっちまっただよ (-_-;)
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