ほぼじゅびふぉ の入荷は2作品。
新登場のお二方に、新登場の曲っつうことで。
rockleetist さんの名作『けんか別れ』動画が消えてた…… orz
おいらはローカルに落としてあるからいつでも聴けるけど、ずっとずっと公開し続けてほしかったなぁ。もっともっと多くの人たちに聴いてほしかったなぁ。
アルミほぐし作業が嫌いだった。けど克服した。根性じゃなく。いやー革手袋ならモリモリいけるわ。たったこれだけでって感じ。
じゃあこの作業を好きになったのかっつうと、まぁそういうわけでもなく……。
H3 ロケット、今度こそデビューいけるか!?
今はこないだの燃焼試験のデータ解析の真っ最中と思われるけど、岡田プロマネの雰囲気からすると、これで今年度中の初打ち上げにメドが立ったっぽいような。
HTML でも JavaScript でも Perl でも、書いて動作チェックするとなかなかうまくいかない。
イライラしながらいろいろ原因を探って、「あーそういうことだったのか」とまぁそんな感じ。投入する労力の割におもいっきり捗らないながらも、書き進めていくわけです。
で、おいらプログラマとしては全然腕がないまんまだけど、やってきたうちに悟ったものがあって。
プログラミングって宇宙の法則との対峙なんだなーと。
この宇宙は137億年前に誕生したらしい。その瞬間に時間が流れ始めて、物理法則とされるものが作動し始めて、それが今までずっと、この宇宙を支配する法則であり続けてるわけで。その法則の大もとのことを、「論理」とか「因果関係」とかまぁ人類はそう呼んでるわけで。
一方、人類の祖先が火を使いこなしたり、道具を作ったり、道具をさらに性能アップさせたりするくらいまで知能が上がったのって、だいたい500万年くらい前らしい。そこまでの知能が身についたってのは、論理や因果関係をある程度理解できるところまで来たってことで。
ただ、それまでに生き物として生き残るべく獲得してきた本能ってのがあってですな。「こう来たらこうなるはず」という直感(思い込み)の元になっとるわけです。
で、コンピュータってのは論理機械なわけで。あるべき論理や道理、因果関係から外れたことを入力すると、動作しなかったり、動いたと思えば予期せぬ変な結果を出力したりするんですな。
てことでイライラするわけです。
このイライラの元って、「本能 VS 論理」「直感 VS 因果関係」ってことでして。まー毎回、論理・因果関係サイドの勝利で終わるんだけどさ。
137億年前に出来上がったルールに基づいて、太陽系ができて地球ができて生命が生まれたわけでして。そこで場当たり的に生き延びようと獲得してきたのが本能なわけで。地球での生命誕生って40億年くらい前らしく。まー宇宙誕生からのタイムラグがだいたい100億年くらいあるわけで。
もちろん地球の生命に合わせて宇宙の法則が変わるはずもなく。
そんでもって、せいぜい500万年ほど前から、人類の祖先は「この世界には法則がある」と勘付いたわけで。で、探究心ってのもうまいこと持ち合わせてたんで、「なぜ」を軸に法則と思われるものをいろいろと探ってきた結果、論理学や科学が生まれて、宇宙を統べるルールを本格的に知り始めた。
けどどうしても思い込み(≒本能)と合わないものがあって、なんとなく人類は本能の声に従ってしまうわけですよ。それはもう40億年の歴史を誇る習性だもんで、なかなかその伝統を捨てられないわけです。
けど捨てる。
プログラマやエンジニアってのはそういうもの。な気がする。
プログラミングしたり、物理的実体のあるものを作ったり加工したりするごとに、「思った通りにいかない」が出るわけで。んでその正解が、完全に自分の思考の枠外の、思いもよらないものだったりもするわけで。
さらにそれは、職場での効率化とか事故再発防止とかでも起きるわけで。そこらへんまで考えがつながったりはしたものの、実用的なとこまでなかなか落とし込めてないってのがね、我ながら歯痒いところ。
水芸とか南京玉すだれとかの伝統的なステージエンタメがあるじゃないですか。ここらって、時代の流れに洗い流されちまった感があるようなと。
発祥時期はたぶん江戸時代の後期かな。当時はかなりウケたんじゃないかと。もしかしたら、明治に入ってからもウケたのかも。
そして、映画やテレビなんつう映像媒体が発達するとともに、一気に消費されちゃったんじゃないかと。
量子物理学でのいわゆる二重スリット実験について「観測者が見ているか見ていないかで、観測対象の状態が変わってしまう。これが量子の世界の不可解なところ」っつうのがまことしやかに語られてるけど、大事なところを盛っちまってるなーってのがだんだんわかってきた。
誰かが目視してるかどうかっつうのじゃなかったんだな。
「観測者が見る」というのは、「感光板に電子が着弾」っつうことだった。そこに行き着くまでの経路じゃ電子は波として振る舞うけど、着弾時は粒子として振る舞う、っうことで。
「観測者が見ているか見ていないかで、観測対象の状態が変わってしまう」という表現、一般の人々の耳目を集めたいのはわかるけど、オカルティック方面を匂わせる方向性はどうなのかと。
アサリのカップ味噌汁の謎。
コンビニで売ってるアサリのカップ味噌汁あるじゃないですか。あれって具のアサリが、真空パックで入ってるじゃないですか。
そいつをカップの中に出して、お湯を注ぐと貝殻がパカっと開いてさぁ召し上がれ、って形じゃないですか。
一方、貝に火を通すとパカっと開くのって、その貝が死んでるとそうならないみたいじゃないですか。
どうなんでしょ、真空パックに入ったアサリって、生きてんのか死んでんのか。
昨日は量子物理学的な話だったんで、その流れでいくと、これがいわゆるシュレーディンガーの猫……違うよな。
……、
……、
……。
製造工場で熱を通してパカっと開いてるのを、真空パックの大気圧で無理くりフタを閉めちゃってる状態なんかね?
なんかナマのまま出荷ってのも、食品衛生上アウトな気がしてきたし。
少子化問題に関係あるかなないかなってネタ。
バブル崩壊直後あたりかな。"DINKS" って言葉が、妙に雑誌やテレビに出るようになったなーと思って。
"Double Income No KidS" の略。「共働きで子供を作らない」っつう意味。
これが当時、流行のライフスタイルのひとつとして世の中に認知されたというか。理由あってその生き方を選ばざるを得なかった夫婦にとっては、世間からの風当たりを少しでも避けられる、ありがたいものだったろうとは思う。
そのときですら、「これが広まったら日本の少子化問題が加速しちまうよなー」と思っとった。その当時で既に、将来の少子高齢化問題は予測されてて、けっこう知れ渡ってたと思う。で、今はそのまんまそうなってるわけで。
とはいえ古い観念に縛られないっつうのは大事だけどさ、わざわざマスコミを使って広めなくたって、とも思ったよ。
で、今じゃこれも知られてるかなと思うものに、どうもマスコミが一斉に何かを広めようって時はさ、往々にして裏で誰かがそう持っていってるってやつがあって。DINKS のときもこのケースが考えられるわけでさ。
マスコミをまとめて動かすには、それなりにお金がかかるわけでさ。だったらきっと何らかの大規模な理由・目的があるはずなわけでさ。
当時の裏社会の界隈は、何が目的で DINKS を流行らせたかったのかなーと。
今の感覚だと、日本を衰退させようっつう海外勢力ってのが考えられるね。それは昔もそうだったろう。けどあの頃はさらに、反日的日本人ってのも相当いたわけで。つうか世の中の普通として、ある程度醒めた目で日本や日本人を捉えたり、日本人の自虐ネタってのも普通に語られたりしてさ。そういう世相でもあったし。
ってそれは情報の広げやすさの話だね。その大元は何だったんだっつうのが謎なわけで。海外勢力説も、根拠のない陰謀論でしかないわな。
いやほんとあれは一体何だったんだろ。
エリザベス女王がお亡くなりになったね。合掌。
なんかキリスト教徒に「ご冥福を……」と言うのは失礼にあたるとか聞いたことがある。てことでそこはナシにして。
女王陛下、どうか安らかにお眠りください。
陛下の生きておられた時代は、陛下のおかげで素晴らしく彩られていました。その彩りが、どうか永劫に褪せることがありませんように。
ここ何年の間にすっかり定着しちまった感のある人手不足問題ってさ、もしかして幻影なんじゃないかと。
「人手が足りない足りない」との共通認識に焦るあまり、あたかもそれが具現化してるかのように見えてるだけなんじゃないかと。
いやさ、2015年までは、あからさまに人手余りだったんですわ。アベノミクスをもってしてもダメなのか……ってな感じだったのが、2016年からいきなりの手のひら返し。当時、「東京オリンピック特需が始まったから、それが終わるまではこの状態が続く」っつう誰かの説明に納得した気がする。
1年延期した東京オリンピックからさらに1年。コロナ失業の時期があったものの、やっぱしというかで人手不足問題が再発な感じ。今度は円安その他もろもろからの好景気の影響ってことになってるんですかね。
ほんとバブル崩壊の1993年あたりから2015年まで、ずーっとずーっと人手余りだったんですよ。で、その解消ぶりというか反転ぶりがあまりにも鮮やかだったもんで、どうもなんか裏にあるような気がしてしょうがない。
んで、「人手が足りなーい! みんなとこどこもかしこも足りなーい!」と血相変えての人材のパニック買い。これが人手不足を醸しちまってないか?と。あるいは陰謀論めいちゃうけど、政府とかが世論を誘導してないか?と。
けど世論誘導でここまで具現化できちゃうんだとすると、少子化問題のほうはどうなんだってことになるね。誘導しなきゃいかん時期がずっと続いてるのに、実は誘導し続けてるのかもだけど、世の中にまったく具現化してないわけで。
じゃあ世論誘導説はあんまし説得力ないか。だったら自然発生デマにみんな乗せられてる説って感じですか。
「意識高い系」って言葉、ここしばらく一般化しとりますわな。
これってまぁ意識が高い人をコケにする意味がありそげなわけでさ。そういう人ってうぜぇからなぁ。
なんでうざいのかっつうと、押し付けがましい見せ付けがましい。付けがましい付けがましい付けがましい。だもんだからってことじゃないかと。まぁ「私は意識高いんです」っつうアピールがうざいわけで。
でさ、それをうざく感じるのってさ、ある程度の意識の高さを持ってる人が、その意識の高さを見せないように配慮してるからこそ、うざいんじゃないのかと。となると、「意識高い系」っつう言葉でうざがる人は、実は「隠れ意識高い系」と察せられるんじゃないかと。
隠れ意識高い系ってのは「隠れ」だからこそ、なかなか表に出ないはず。けど世の中じゃ「意識高い系うぜー」っつう風潮なわけでさ。そういう風潮になるほどには、隠れ系の人たちのシェアが拡大してる、と取れなくもないんじゃないかと。
そうなると、意識の高さを隠さないかったり、ましてやアピールするっつうのは、不可視も含めた実際の情勢に照らすと、あんまし意味ないことというか、逆効果というか、そういうもんでしかないのかも。
ただ、それは個人での話。どうも企業や団体の対外イメージを高めるには、意識の高さをアピールするのって素直に効きそうでもある。そこらをうまく分別するのが大事なのかもな。
環境保護活動の過激派っているじゃないですか。なぜか白人ばっかしなイメージのアレ。
日本人の多くが非白人だからってわけでもないと思うけど、日本じゃあの手のアピール活動って反感を買うばっかのような。
グリーンピースがナスカの地上絵のすぐ横に、なんか英語でメッセージを出してドローン空撮して政策をアピールってのがあったね。遺跡保護を訴えたのかと思いきや、全然関係ない内容で。あとでグリーンピースは全面謝罪したそうだけど。
"TIME FOR CHANGE! THE FUTURE IS RENEWABLE (変革の時が来た! 未来は塗り替え可能)" だそうで。漠然としすぎてどうでもいいメッセージだな。環境保護を謳うくせに遺跡の破壊は気にしないとか、よくわからんことしとるなぁ。
ついでにこの事件で、あの有名なハチドリの地上絵が、案外小さかったっつうのも話題になったわなww
ハチドリの地上絵、かつてはゼビウスの背景に出てたよ。あのくらいの壮大なサイズ感だとばっかし思っててさ。グリーンピースがやらかしたおかげで現実を知ってがっかりしたのは、おいらだけじゃなかったらしいwww
で、こういう見せ付けがましい意識の高さって、たぶん海外じゃ効き目があるんだろうな。企業や団体のイメージアップには素直に効くんだろうなとは思うけど、ここまでやりすぎると、メッセージの受け手としての気持ちはやっぱしうざい方向に行っちまうなぁ。
20年くらい前から、日本でも環境保護団体の人が、勝手にビルの外壁を登って警察に逮捕されてですな、動機はメッセージを伝えるためだった的なことがあったような。ニュースで知ったけど、報道する側も醒めてる感じだったっけ。
いやほんと本人以外はドッチラケっつうのがね、どうもね。ああそうか、「反感を買う」ほどにもならないってことか。
なんとなく、カスピ海とアラル海が「海」のような気がしてきた。こういう定義って多分に感覚的なものなのかもな。
同時に、「世界の海はひとつに繋がっている」っつう定義もまた感覚的なものって気もする。
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